Itsukushima Perry

Early Japanese guitar makers初期日本のギター製作家


日本人で初めてギターを所有


■ 日本人で初めてギターを所有したと言われているのは、 平岡 熈[Hiroshi Hiraoka] (1856-1934)である。[*前述:平岡 熈]
 1877年に帰国(ボストンから)した際、彼は野球、ローラースケート、そしてギターという3つの重要なものを持ち帰った。
彼が持ち帰ったギターの種類は正確には不明とあります。

平岡 熈が渡米する以前のアメリカのギター事情は、ウィーンからアメリカに移住した、クリスチャン・フレデリック・マーチン(Christian Frederic Martin [1796 - 1867 ]) マーティンⅠ世(ヨーロッパモデル:Martin Staufferモデル:1833年までの製作。)[*1]
が市場を占有していたが、彼は1867年に永眠した。

Martin Staufferモデル:1833年までの製作
[*1]Martin Staufferモデル


1871年の渡米時(平岡 熈)は、そのⅠ世の築いたマーティン社の技術と実績を、息子クリスチャン・フレデリック Jr. が受け継いでいた時代であった。
マーティン社も十数人のクラフツマンを雇用するほどの活況であったとある。(1873年当時)

[*2] 下の2枚目挿画 :1860年代に製作されたMARTIN。
19世紀後半に製作された、当時"パーラー・ギター"という愛称で親しまれていたモデル。
マーチン社の資料によると、この3-17が制作されたのは1856年からとあります。
[*制作時期]:C. F. Martin - Cherry Hill era (1839-1859), Nazareth (1859-1874), The Guitar Wars (mid-1850s)
[*出典]:C.F. Martin Guitar Factory 2012-08-06の展示品説明文から

上述、平岡 熈がアメリカから持ち帰り、所有したと思われるギターについては、Nazareth (1859-1874)時代の製作かも知れませんね。

1860年代 マーチン・ギター
1860年代 Martin Guitar


明治期のギター事情はどうであったか?

■ 最初に記録の残されたギターとしては、比留間賢八が持ち帰った「ペルフーモ」 で、No.192 です。[Juan Perfumo(製作年 1843年)]。[*3]:下の1枚目挿画

■ その次に掲載が見られるものとして、武井守成が1916年6月4日の記念撮影時の写真での「番外弦付きギター」であろう。[*4]:下の2枚目挿画
武井については、1913年頃から比留間賢八にギターを習い始め、のち田中常彦の門下生となり、1915年9月26日、田中常彦とマンドリン・アンサンブルを始め、ギターのパートを受け持つ。とある。

■ 1919年、武井はイギリスのフィリップ・ボーン[Philip J.Bone(1873-1964)]から3本のギターを購入した。
1858年製のラコット(ラコート)、ドゥ・ラゼ(a de Lazée) ? [※注1]、シュタウファーのテルツ・ギター
この3台のギターのうち、ラコート・ギターのみが手元に残った。(後は関東大震災で焼失したようである。)[*5]:下の4枚目挿画

[※注1]ドゥ・ラゼ(a de Lazée) ? が判明。[2024/12/10:管理人]→ 「Honoré (Jean-Joseph) Derazey-パリ-」1800年代 カルリ愛用。
[*参照]digitalguitararchive/1939-76-Armonia.pdf/P.132/ギター製作家リスト /小林 博(製作理論家) より


■ 第一次世界大戦[1914-1918]が終わって間もなく、中野と彼の二人の友人、川瀬 晃と河合 博はロンドンでフィリップ・ボーンからギターを購入した。
河合はラコートを購入し、中野はパノルモ、川瀬は番外弦付きスタウファーを購入した。[*6]:下の5枚目挿画



ヴィナッチア(F.Vinaccia)、カラーチェ(R.Calace)両ギターの宣伝が相当広くなつて居るのが知られる。喜ばしいのは本邦製作家のギターが少数ではあるが持たれて居る事である。





1843 年に製作 ペルフーモ
1843 年製作の『ペルフーモ』

1843 年製作の『ペルフーモ』

左の写真は、1843 年に製作され、1901 年に日本に持ち込まれた比留間賢八の Perfumo で、No.192 です[*Juan Perfumo(1843年)]。
このギターは比留間の娘さんの比留間絹子氏から片岡道子(マンドリン)氏の手元に渡ってございます。
現在は「槐智明(さいかち ともあき)」氏が使用されているようです。[*2024年]
片岡マンドリン研究所
https://www.kataoka-mandolin.jp/?p=4658

19世紀の製作家たち/御三家と様々な製作家たち
http://www.crane.gr.jp/19th_Guitar/author.html



番外弦付きギター

1916年 番外弦付きギターを持つ武井守成氏

1911年5月に、武井守成氏(*21歳の時)イタリアに渡っており、その時に初めてギターに出会ったようだ。
1913年頃から比留間賢八にギターを習い始め、のち田中常彦の門下生となる。
1915年9月26日、田中常彦とマンドリン・アンサンブルを始め、ギターのパートを受け持つ。

[*前述:武井守成]
『シンフォニカ・マンドリーニ・オーケストラの最初のリサイタル[*1916年6月4日]の写真にあるように、武井は10弦ギターを手にしている。
(このギターに関する情報は見つからなかったが、上のリサイタルの写真に写っており、中野[中野二郎氏]の記事にある写真と同じギターではないと思われる)。』


[*管理者より]:武井は10弦ギターを手にしている。との見解で記載されているが、「挿画」自体が不鮮明であること、この第1回試演会で使用されたギター自体の購入元及び購入時期の情報が見当たらないことも含め、今後の研究を待ちたい。

[※] 当時の19世紀ギターに詳しい方のご意見も伺いたいものです。


管理者の私としては、下に掲載しています「川瀬 晃 氏購入の同タイプ:シュタウファーの8弦タイプ」、若しくは「7弦タイプ」ではないかと推測しているのです。・・・・根拠はありませんが。

番外弦付きギター

コストの7弦ギター

[左記挿画]
ナポレオン・コスト[Napoléon Coste](1805年6月28日 – 1883年2月17日)はフランスのギタリスト、作曲家。

①手前左端の「7弦ギター」と上記の武井守成男爵の「番外弦付きギター」と比較して、コストの7弦ギターの「指板がサウンドホール」まで斜めに切ってあるのに対して、武井のは「ストレートな指板」であるように見える。

※1.「ラコートの後期」モデルかも知れません。
※2.もともと6弦だったものをラコートの弟子達が7弦として1858年に組み立てたもの(いわゆるラコート・スクール)。
[*参考]:CRANE / TSULTRA/ルネ・フランソワ・ラコート(後期)より


②コストの挿画の胴本体形状と武井の「番外弦付きギター」胴体形状が異なっているのが伺えるのである。

③武井「番外弦付きギター」の「駒部分」の形状は不明であるものの、挿画を不鮮明にすれば、下記に貼付した「シュタウファー・ギター[川瀬 晃 氏購入]ギターと同タイプではなかったのか? と考えるのですが。[*管理人の独断]

[*参考]: 『CRANE 19世紀ギターの世界』

野辺手工ギター工房所有Anton Staffer番外弦付きギターのリペア品

[※]19世紀ギターに詳しい方のご意見も伺いたいものです。の上記記述をうけまして、ご意見を伺えましたので、掲載させていただきます。

[ご意見元]:『CRANE 鶴田 誠』 氏
『結論からいえば8弦です。根拠は以下3点。

●ボディサイズと形状が10弦には見えない
19世紀当時の10弦ギターはドイツ、ウイーン、ボヘミア界隈において

(A)ボディがティアドロップでセミボウルバック(コストの写真中央シターン風)
(B)ウイーンのシュランメルン(ダブルネック)
https://ontomo-mag.com/article/column/gakki-jiman26/

 野辺さんの修復したシュターファーは現物を見たことがあります。
 http://nobeguitar.com/gallery2.htm
 この楽器のボディ幅は8弦のボディの可能性はあっても10弦はあり得ません。
 ボヘミアやウイーン、ドイツの多弦ギターも各種修理しましたがもっと広いんです。巨大です。

●6弦用ネックに4コース付加すると壊れるから
(C)仮にシングルネックで4コースを追加すると弦長も延ばすのでヘッドの長さはほぼ2倍
 標準的な6弦ギターヘッドに付け足しで張力に耐えられるのは2コース(8弦)まで
 写真の武井氏は両手でヘッドを支えているので10弦ではない。
 フランスのラコートは10弦の張力に対して素直にネックと指板を10コース分まで広くした(デカコルド)』



1858年製 ラコート・ギター
1858年製 ラコート・ギター

1858年製のラコット(ラコート)

1919年、武井はイギリスのフィリップ・ボーン[Philip J.Bone(1873-1964)]から3本のギターを購入した。
まず1858年製のラコット(ラコート)[※1]と、以前カルリが所有し、後にカルリの弟子スクワイア・ベンゾル(綴り?)[*Squire Benzol [spelling?]]が所有したドゥ・ラゼ(綴り?)[a de Lazée [spelling?]] である。
後にシュタウファーのテルツ・ギターを手に入れた。

************************************

[ *Original Text ]
In 1919, Takei bought three guitars from Philip Bourne in England. The first were a Lacote made in 1858 (now owned by his daughter Naoko Adachi) and a De Lazée (spelling?) that had been owned by Carli and later by Carli's student Squire Benzoll. Later he also bought a Stauffer-made Törz guitar. As can be seen in the photo of the first concert of the Sinfonica Mandolini Orchestra, Takei has a ten-string guitar. (I have been unable to find any information on this guitar, but it is in the concert photo above and I don't think it is the same guitar as the one in Nakano's article .) Along with these instruments he also bought about 50 pieces of sheet music. Among them were:

*************************************


[※1]娘の足立直子が所有(記事作成当時)

※「武井文庫」の記憶を辿って/足立直子
~<前略> ~震災以前に父が集めた楽譜は、膨大なものであったそうですが、それはすべて震災で焼失しました。再び集めた楽譜は、新しい家の二階の「書斎」にありました。この部屋は広い西南に面する角部展で、父の皮張りの大きいデスクの上には、いつもウェストミンスターの箱がありました。~ <中略>~
『現在、譜面が茶色になっておりますのは、その時の「くすぶり」が原因だと思われます。木製の八角形のようなケースに入っていた私のギターは、中も外もバラバラにこわれてしまいましたが、皮製のケースのラコートは、全く無事であったのは驚くべきことでした。』
~<後略>~



中野と川瀬 晃と河合 博はロンドンのフィリップ・ボーンからギターを購入した



ラコート・ギターパノルモ・ギターシュタウファー・ギター



『日付ははっきりしないが、第一次世界大戦[1914-1918]が終わって間もなく、中野と彼の二人の友人、川瀬 晃と河合 博ロンドンでフィリップ・ボーンからギターを購入した。
彼らが最初にボーンに手紙を書いたとき、彼らは20ポンドから30ポンドの値段がする約20種類のギターの写真を受け取った。
中野はこれらのギターを買うお金がなかったが、何とかしてお金を払わなければならないことは分かっていた。

川瀬(晃)は、ジュリオ・レゴンディが彼の主治医であるケイスフォードに捧げた10弦のスタウファーを購入した。[※]前述に同で8弦
ボーンによると、このギターはケイスフォードの死後、シドニー・プラッテン夫人が生徒の一人のために購入したもので、ボーンはこの生徒の死後このギターを手に入れた。
このギターは川瀬の死後、溝淵浩五郎が購入した。
現在は弦楽器製作者の野辺正治氏のコレクションにある。[*2]
溝淵が所有していた間に、フローティングベース弦がヘッドの延長部も含めて取り外され、6弦に改造された。
河合はフェリックス・ホレツキーが使用していたラコートを購入し、中野はパノルモを選んだ。』


[*2]:「写真」および、イギリスのフィリップ・J・ボーン[Philip J.Bone(1873-1964)]の鑑定書も掲載されています。。



日本クラシックギター製作の歴史

[*1]1920(大正9)年の反動恐慌を機に景気は暗転し、日本経済は、「慢性不況」の時代を迎えることになった。
「慢性不況」下では、反動恐慌だけでなく、1923年の震災恐慌、1927(昭和2)年の金融恐慌、1930~31年の昭和恐慌という、景気後退が相次いで生じた。

1929年10月のアメリカにおける株価崩落に端を発した世界恐慌と連動したこの昭和恐慌は、日本近現代史上、最大規模の景気後退局面となり、1930~31年には日本の名目国民総生産は、大幅なマイナス成長(年率-9~-10%)を記録した。

[*2]国内におけるヴァイオリンの量産化は,第一次世界大戦中[1914年-1918年]のヨーロッパからの供給が止まったために千載一遇のビジネスチャンスとなった。日本製ヴァイオリンのほとんどを占める鈴木ヴァイオリンが,アメリカを始め世界中への供給源となる。

[*1]第1次世界大戦の終結により日本経済はしばらくの間は戦後の復興需要に支えられ好調に推移しましたが、交戦国の復興とも相まって大正9(1920)年春ごろから日本の大正バブルは終結に向かい、たちまちにして急激な反動不況に突入しました。
[*2]Osaka University Knowledge Archive:近現代日本における洋楽器産業と音楽文化/1998 2月/田 中 健次/その他の楽器/6.ヴァイオリン産業 より



下記の荒井氏の言は記録と現物が確認できていないことから、別にしまして、鈴木寅吉翁が、1914年(大正3年)から ギターの製作、発売を始めたことが最初であろう。



digitalguitararchive/1930-23-Armonia/P.22
弾絃風景 E.A.S
本邦に於けるマンドリン製作ギター製作に就いては相当に研究もされ、宮本金八氏其他の製作家が芸術的なギターの製出に成功を見ていながら、マンドリンに就いては従来甚だ閉却されていたようである。
現在合奏団に於いて現在売り出されている、本邦製のマンドリンを其のパートの中に持つているものは恐らく数える位に過ぎないと思う。
現在売り出されているものに鈴木製の他3,4種が安価に出ているが、相当進歩せる奏者の要求には添ふものでない。
当然外国製品を需要する、外国製品を需要しなければならない一面に、大きな欠点の存在することは多くの人が経験せることと思う。
~<中略>~
名古屋の中野二郎氏の近信は吾々を喜ばした。それは鈴木政吉翁が本邦製マンドリンとして鋭意研究製作に努力され、着々進歩を見つつあると聴く。
前中野氏は鈴木翁特作のマンドリンをもって今秋の演奏会に独奏し、その四重奏にマンドラ、マンドロンチェロ等の同翁作楽器を使用する由で、マンドリンはカラーチェのクラシコを凌ぐ程の音色音量を持つとの事である。
武井氏が鈴木氏に種々のモデルを示され鈴木氏がそれによって研究製作し、数種の製品を武井氏に送り武井氏は其の製品を合奏中に、或は独奏に試用中との事を承知した。
吾々はその製品に到して接する機会を得ないが、斯くして本邦製品が完成の途をたどる事となれば望外の至りと言うべきである。
優秀本邦製品の出現に依って尚一歩を踏出すことと思う。

digitalguitararchive/1930-23-Armonia/P.22




1974年 『ギターよもやまばなし』
* *荒 井 史 郎* *
(荒井貿易 社長 中部日本ギター協会副会長)

『日本のギター製作史』の項目として

明治36年(*1903年)には鈴木バイオリンの創始者, 鈴木政吉翁によって外国のギターがコピーされ制作が始められたというが,現在その楽器をみることはできない。[*3]
門下からは多数の優秀な製作者が出,それぞれに独立のギター工場を持ち, 今日のギター産業の礎えとなった。
鈴木バイオリンの本拠地である名古屋が弦楽器の中心地となったのは当然の理である。
ギター音楽の普及とともに,製作も進歩していったが, 西欧との交流も少なく手探り状態であった。

大きな刺激となったのは昭和4 年(*1929年)に来日してセンセーションを巻き起こした世紀の天才,スペインのアンドレス・セゴビアの演奏で, ギター音楽の素晴らしさを初めて一般に認識させた。
100 年に1 人出るか出ないかといわれる音楽の巨匠,セゴビアは82 歳(*1974年時点)の今日, 依然として健在で,ヨーロッパ方面を主として演奏活動を行い, 毎日の練習も欠かさないといわれている。
ヴァイオリンの銘工として知られた宮本金八氏(*1919年に日本楽器より独立)はセゴビアの演奏に感激し,ギターの製作を思いたたれ,演奏会に使用されたギターのコピーをとり,弟子の中出阪蔵氏が主としてその任にあたられた。(*1929年)
後年中出氏は独立(*1933年)してギター製作家としての道を歩まれ,今日も子息ともども製作にいそしんでおられる。[*1974年時点]
戦後約10年間は古賀メロデーを頂点とする歌謡曲の伴奏としてのスチール弦をはったギターが主として流行し純音楽としてのクラシックギターは順次愛好者を増やしていったものの,影の薄い存在でしかなかった。
~<後略>

[*転記]:講 演 :日本音響学会誌 30 巻 1 号(1974)より抜粋
(*西暦)は当HP管理者の補足



[*3]上記、明治36年(1903年)に鈴木政吉翁により「外国のギターがコピーされ制作が始められたが、現在その楽器をみることはできない。」とありますが、「鈴木バイオリン製造㈱」Web Siteの最下部「過去のラインナップ」で、エクセル表の「ギター」シートの大正3年(1914年~1933年、1920年~1933年)に[No.1/No.2/No.3]、そのほか[米国型 No.631、露国型 No.641、棹取付自在 ~ ]とか掲載されています。

下段に記載していますが、1929年の「Study-of-Mandolin-and-Guitar」の読者質問に対して、武井守成氏の回答で鉛木製のラコート型をお勧めいたします。とあります。
つまりは、鈴木製の当初製品は「ラコート・ギター」のコピーであったことが伺えます。



※鈴木製「ラコート・ギター」については、「リュートの奇士」氏が運営するBlog「わが窓より行け」の『鈴木政吉のラコート・モデル』:2015年に掲載
https://mywindow.blog.fc2.com/blog-entry-1630.html に詳しく掲載されていますので、そちらを御覧願います。

[*写真]の鈴木政吉のラコート・モデルについて、~<前略>~『多少の汚れや擦り傷はありますが、実に状態の良い楽器です。1930年作でNoは30◯。
バックとサイドは見事な虎目のメイプル。オク(オークション)に出ていた2本とは明らかに格が違います。
100番台2本、300番台2本での比較ですが、仮説はまず間違いの無いところではないでしょうか。』~<後略>~
[*写真提供]:2015年12月27日 リュートの奇士 様「鈴木政吉のラコート・モデル」より

鈴木ラコート鈴木政吉ラベル

そのほか、『古道具屋 キタロウ商店』鈴木政吉 ラコートタイプギター 大正期~戦前期 https://www.kitarou-shouten.com/case/263/ をWeb上の情報として見つけました。



[ 挿絵目次 ]でのギター「19世紀中期(ラコート作)」、ギター「現代(宮本金八作)」として掲載されたものです。

1924年(大正13年)[*出典]:マンドリン・ギター及其オーケストラ



[1929年]の記事ですが、下記内容でギター購入に関し、読者からの質問に武井守成氏が回答されています。

[質問]ギターは力ラーチェ製を奨められる様ですが西班牙(スペイン)の Salvador Ibanez の手製品は信用するに足りましょうか。
若し両者が同一価格でした場合は何れを採ったら良いでしょうか?(神戸•M•K生)

[回答]力ラーチェ製をやむなく奨めたのは今の事ではありません。
イバネツ(イバニエッツ)製もあまりお奨めできません。
むしろ鈴木製のラコート型をお勧めいたします。

[*転記]:06-12-Study-of-Mandolin-and-Guitar /「読者欄」



下記「*挿画」は1928年、1929年ごろの宮本金八氏作「ギター」を弾く大河原義衛氏。
[digitalguitararchive/1930-22-Armonia/P.19-P.21]

大河原義衛
1928年、1929年ごろの宮本金八氏作「ギター」を弾く大河原義衛氏

1930年「大河原氏と語る」:高橋 功
今まで2,3度来仙(仙台)されたので其の都度に相会う機会を持ちながら、私逹の色々な事状がそれを拒んでいた。
併し、6月3日(※1930年)いよいよ最初に相見えた時に、私逹は数年の舊知(旧知)のように胸襟を開い(きょうきんをひらく:思っていることをすっかり打ち明ける)て語ることが出来た。
やっと旅装を解かれた所に、S氏(※澤口忠左衛門氏と思われる)と私が訪問した。
恰度(丁度)、楽器が取り出されてあったので。いきおい話は楽器のことに始まった。
氏の現在持つて居られるギターは宮本金八氏の作品10番1927年の製作である。モデルは何によったのか不明であるが、形はラコート型のよりも幾分小さいとのことである。
他楽器とのアンサンブル(主としてヴアイオリン)の場合には音量が小さ過ぎるそうである。

鈴木製ラコート型ギターに対して形の小さい点と、音量の2つの点から、賛成されなかったが、暗にライフリンゲンの持論と符合しているのは、おもしろかった。

とに角、大河原氏は、現在我が国で第一の問題は奏法上の研究であって、楽器の問題は其の次であると言はれたが、氏の此意気ご闘志を心良く感じた。
本邦ギター音楽の開蒙期に於いて、唯一の希望は、艮き演奏家の出現であらねばならないのは勿論だし、将来への光明も此の積極的運動に始められるのは当然である。
氏の此の覇気を喜んだ、第一歩を喜ぶ所以である。

~<後略>~

[*転記]:digitalguitararchive/1930-22-Armonia/P.19-P.21





24のフレットを持つなど、ギターの特徴も併せ持つ『アルペジョーネ』

Arpeggione Henning Aschauer 1968
アルペジョーネ、Henning Aschauer が1968年に製作、Alfred Lessing の仕様に基づく
アルペジョーネもしくはアルペッジョーネ(arpeggione)は、1823年から1824年にウィーンのギター製造者ヨハン・ゲオルク・シュタウファーJohann Georg Staufer, 1778–1853)により発明された、6弦の弦楽器である。
弓で演奏するが、チェロを小ぶりにしたような本体のために重音を出すことが容易であり、また24のフレットを持つなど、ギターの特徴も併せ持つ。
このため「ギター・チェロ」という別名でも呼ばれたが、外見はバロック時代のヴィオラ・ダ・ガンバに似ている。
[出典]: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』/アルペジョーネ

1931-26-27-Armonia/P.17-P.19

アルペヂオーネとシューベルト其他 高橋功

最近コロンビアからカサッド編イ短調チェロ協奏曲が出たが、原曲はジューベルトのアルペジオーネの為のソナタである。 アルペジオーネは今日ドイツの音楽博物館にでも行って注意して見ないと見られないような楽器で、カサッドのレコードが出なかったなら僕も不問に附する所だった。
この機会にこの楽器に就いて記録して置くのも無意味ではあるまい。

18世紀から19世紀にかけてギターが家庭楽器として動かすべからざる地位を得た頃、気のきいた楽器製作家が、ヴアイオリンとギターの混種を思い立ったことは想像に難くない。
先づフランスのヴアイオリン製作家 Francis Chanot がヴアイオリンにギターの形を置き換えた。
所が之より少し後れて獨逸ではチェロの形をしながらギターと同様にフレットを持ち6絃で、而も同様に調律する楽器を考案した。


其の先謳者(せんおうしゃ)としてペスタのヴァイオリン製作家 Leeb が知られている。
此の楽器はチェロと同様に据えられ、弓で奏される所からストライヒギタルレ又はボーゲンギタルレ呼ばれた。
それより約20年程経て Teufelsdorfer はギタリスト Schmid の指導の下に一種のストライヒギタルレを製作してセンチメンタルギターと命名した。

丁度此頃、有名なウイーンの J. G. Stauffer も同様な楽器を製作した。

此の新楽器は1823年に Leipziger allgemeine musikalische Zeiting 誌上に紹介され翌24年には音楽誌 Cacilia が詳しく之を紹介している。

『最近ウイーンのスタウフェルが新楽器を製作したが、之は其の外形をギターに模した所からボーゲンギタルレ又はギタール・ダモール呼ばれる。
之はチェロご同様、両膝に狭んで演奏するのでギタールヴイオロンセロとも呼ばれる。
之は指で奏されるのではなく弓で奏されるのであるが、其の外の点では全くギターと等しい。 形はギターより若干大きい。 6弦で [ E,A,D,g,h,e ]、に調律される所もギターと同じである。 ・・・・・この楽器の音色は魅惑的に美しい。
一寸、木管楽器の音色もあって高音はオーボエ、低音はバスホルンを感じさせる・・・・。』
矢張りウイーンの Johann Ertl なども此の楽器を製作したが、レープにせよトイフェルスドルフェルにせよ又エルトルにせよ知名の製作家でなかった為に、スタウフェルの姿の影にかくされてしまつてスタウフェルが其の考案者とさえ言ひ伝えられているのである。

此築器は HeinrichAugust ilimbach と Vincenz Schuster によって広められた。
ピルンバッハはウィーンの宮廷劇場付ギタリストで1826年にはベルリンに来てボーゲンギタルレのヴィルトウゾとして名を成した。
シュステルは此の新楽器の為に教則本 Anleiting des Guitarrc-Violoncello を出版し貢献する所があった。

此の教本は1825年に出版されたのであるから、シューベルトのソナタ(アルペヂオーネの為の)の一年後のことである。
恐らくシューベルティアーデのギタリストであったシュスルから其の智識を得たのであろう。
Dr.Karl Geiringer (wien)の考証によれば此のボーゲンギタルレ(又はストライヒギタルレ又はギタール・ダモール、又はセンチメンタルギター又はギタール・ヴィオロンセロ)に対してアルペヂオーネなる名が最初に冠せられたのは1871年で、此年に例のソナターSonate fur Arpeggione und Piano-fortevon Franz Schubert.November 1824 がシューベルトの死後約40年にして出版されたのである。
此曲の原譜はウイーンの楽友クラブのシュバウン文庫中にあったものだが、1895年の競売によって現在は.ハリのコンセルバトリウムが所蔵している。
原譜には製作日が記入されていないがシュバウンの覚書によって1824年11月の作とされている。

アルペヂオーネは今日の楽器ではない。
それは果かない命の楽器ではあったが、シューべルトのソナタの故に名を後世に伝えること が出来るであろう。
ケルン市ハイヤー音楽歴史博物館所蔵のスタウフェル作アルペヂオーネは、今はライプチッヒの人類学博物館に於いて見られる筈である。

digitalguitararchive/1931-26-27-Armonia/P.17-P.19



宮本金八作 ヴィオロンギター
1929年 宮本金八作 ヴィオロンギターを手にした小倉 俊

左の「挿画」は1929年に撮影されたもので、彼が手にしているのは宮本金八の「バイオリン・ギター」である。

胴体の形状はヴィオローネともヴィオラ・ダ・ガンバとも異なっており、チェロのC型の形状をしているのが見て取れる。

1930-Armonia.pdf



1930年:「弾弦風景」  ◇ギターとギター弦漫考 より [*投稿者:E.A.S]・・・"Estudiantina Armonia di Sendai"を略し、投稿したものと思われる。つまり「Armonia誌」の見解。
~<前略>~然しここにもう―つ問題がある。それは楽器である。
其は身体である。本邦人が多数所有しているところの産業的楽器(少数の芸術的楽器については他に述べる)はガット弦(従って絹弦も)が不向の為に鋼鉄弦が使用されているが其の為に楽器そのものに於ても、それに適した様に作為がなされているらしいと思われる点である。

之は勿論これらの楽器の輪入の衝(しょう)にある人の楽器そのものの作為でなく選択に依る事もうなづけるが、とまれ本邦人に持たれている多数のギターが(即ち鋼鉄弦使用のギターが)其のままガットを使用する事はどうかと考えるのである。之等のギターの大部分は、機械的の糸巻と狭い棹の幅を持つていると言ってよろしい。

少くとも右の二つに就いてガット弦の使用が幾分害されるのである。
機械的糸巻は鋭敏な鋼鉄弦の緊張には持つて来いであるがガットには少なからざる氾雑なものである。

ともすると細い中心は弦の為にに一ばいになって、所用の緊張に達しない中に廻転不能になりそうである。
之は弦の延に著るしい特徴があるからである。
調律に於いて斯る仕打ちは実に厄介である。
多少の注意と労を持つてすればある程度まで出来るものであるが、機械仕掛けでない糸巻(ヴァイオリン等にある様な)の便利と合理さに比して雲泥の差と言われる。

一体機械的糸巻は鋼鉄弦使用に依る発明品である。(マンドリンを見よ)鋼鉄絃の用のないヴァイオリン等は従ってそれを要しないし、取付けたとしたなら無用の長物となってしまう。
大胆に言ってしまえば機械的糸巻の付いたギターは鋼鉄弦用のものとも言えるであろう。
指板(棹)の巾も使用弦が鋼鉄弦であれば相当狭くとも差し支えないかの如くに機械的糸巻のギターにその傾向が多いようである。

以上は本質的でないとも言われるであろうが、之等を考えずして、ただ単にガット弦を使用しようとするのは無謀ではなかろうか。多少の努力で優れたガットを使用し得る。其多少の努力の部分が今度は大切になって来る。

前述の楽器に対して、ガット弦は使用され得ないと極言なし得ないのであるが、少なくともガット弦使用としての楽器を考える必要がある。

近来多くの優れたギター演奏家がスペイン型ギターを使用 している事は度々報ぜられる所である。
スペイン型ギターの重なる特徴は型体が大きく、指板(棹の)の巾も広く半木製の機械的でない糸巻等をあげ得る。

当然使用弦はガット弦、絹弦で、此種の楽器に、鋼鉄弦使用は殆んど不可能であるとまで考えられる。(スペイン型ギターとはトルレス、ラミレース、ガルシア等で産業的楽器としては其モデルである。
ドイツ製のトルレスモデル等の産業的楽器でも求め得ると思う。
エバニエズギターは上述のスペイン型ギターの部類には入らない。
スペイン製ではあるがエバニエズ製作所作の単なるギターである。)
ここではガット弦絹弦の使用は、本質として鋼鉄弦よりも勝っているが、楽器其物を考えずして単に弦のみ取り換える事に対して注意を喚び度いと言う訳である。』

[*転記]Digital Guitar Archive/1930-22-Armonia/P.263,264


1933年:近況 小倉俊氏(東京)最近 宮本金八氏製のギター・ラミレースモデル出来ました。

1932年:宮本金八作 ヴィオロンギター

宮本金八作 ヴィオロンギター
宮本金八氏作 作品11号 ヴィオロンギター

1932年 フレッティングの改良(上)
(ギター製作の新メソード):佐藤 篤

ギターは非常に優秀な(Wonderful) 楽器の一つであると私は信ずる。
何故ならばギターは他の如何たる楽器、例へばViolin, Cello, Piano ,etc . のもつことの出来ない特種な音楽的美しさ情緒をよく表現する事が出来、叉如何なる人も之と容易に親しむ事が出来るからである。
恐らくギターは地球上に人類が生存する限り多くの者によく愛せられ、奏でられるであらう。

然しながら現在吾々祖先から受ついで来たギターは二つの大きな欠点をもつて居る。
第一に音量の少ない事。
第二に音階の不正確なる事である。

音量と音階の此二つの問題に関し私は研究し、ある程度まで改良する事に成功した。
そして之を此雑誌を通じて、世界のギター製作者、並びにギター愛好家諸君に報告する機会を得た事を心より嬉しく思う。(小序)

(編集者附言 本稿は『如何にして音量を増加せしむるか』と共に全編をなす)
~<中略>~~<後略>~。

[*挿画]digitalguitararchive/1932-34-Armonia/P.244

2017弦楽器フェア 宮本金八作 ヴィオロンギター
島村楽器公式ブログ「2017弦楽器フェア(日本弦楽器製作者協会主催!)レポート 前編

宮本金八作 ヴィオロンギターのレプリカと思われます。



宮本金八作 ヴィオロンギター
1937年:宮本金八作ヴィオロンギター「曙」昭和12年12月8日

[*写真]宮本金八作ヴィオロンギター「曙」昭和12年12月8日

佐藤 篤
『ビオロン』ギターの創作へ

『ギター』の改造に関し先に本誌上(アルモニア第5巻第8冊昭和11年10月褻行)に於て少しく意見を述べたが、その後改善進歩した主なるところに就き記したいと思う。
『ギター』に魂柱を立つ可きか否かは非常に大きな問題であるが、若しも『ギター』に魂柱を立てないとするならば『ギター』は既に研究し尽された或る意味に於て行詰った楽器である。

『ギター』に魂柱を立てるとすると元来本楽器が指先を以て弾弦する楽器で『ヴァイオリン』や『セロ』と異つて充分なる余韻を必要とするものであるから、如何にして此の問題を解決すべきかに研究の焦点が集められて来る。

色々苦い経験の結果魂柱の位置は次頁図に示す様に低音側の縦の力木の上で駒から約六糎(センチメートル)程上方(力木は低音側と高音側と共に縦に二本ある)に立てるのが最も良いことを発見した。

ヴィオロンギターの魂柱図
宮本金八作ヴィオロンギター「曙」魂柱図

力木の上に魂柱を立てると言うことは今迄の楽器製作上の概念からすると不合理の様に考えられるが、『ギター』の表面板は特別薄く削らねばならないために直接魂柱を之に立てると云ふことは楽器に封して極めて危険であるから、表面板を保護する意味において力木の上に魂柱を立てなければならないと言う結果になって来る。

然して魂柱は力木の上に立てられて弦から伝った表面板の振動を直接且つ有効に脊面板に伝え、而も音の余韻を害さない様に楽器を製作するところに製作者の技術的苦心が払われるのである。

次に楽器の構造が此の様になると響孔は従来の楽器の如く中央に円形の響孔が一個あるものよりも下孔の方が遥かに優つて居ることが分った。
『ギター』の駒は色々作られたが『ヴァイオリン』や『セロ』の様な薄い駒では効果少ない。

『ギター』の為に特に余韻を充分に持たさなければならないために駒は或一程度の重さを必要とするもので横から見ると琴の駒の様な形をしたものが考えられて居る。

小倉俊と佐藤篤
1929年 左側:小倉 俊、右側:宮本金八作 ヴィオロンギターを持つ佐藤 篤
[*挿画]:現代ギター
本楽器は『ヴァイオリン』系楽器の構造を取り入れて改良したために従来の『ギター』と区別して考えた方が良いと思って、私は之を『ビオロンギター』と名付けたのである。
私の永年『ギター』の改造に就いて夢見て来たものが宮本金八師の卓絶した手によって創作せられたのである。
多くの『ギタリスト』によって『ビオロンギター』の奏さる日の早からんことを待望しつつ。
(昭和12年12月26日)

digitalguitararchive/1938-67-Armonia/P.19-P.20

深沢七郎 愛用ギター
[*1]深沢七郎愛用のギター (寄託資料)
手前から瑞雲(ずいうん)と古稀(こき)

『深沢七郎愛用のギター』として、宮本金八翁のギターが保存されている。
[ 私とギター深沢七郎 ]より

小説家 深沢七郎の生誕110年記念の特別展示 原稿や愛用のギターも 山梨県立文学館



YAMAHAが日本楽器会社東京支店という社名を使用していた頃の広告

1936年 鈴木トーレス1941年 宮本金八ビオロンギター/鈴木政吉スペインギター

[*左側挿画]:1936年 鈴木トーレス
[*右側挿画]:1941年 宮本金八ビオロンギター・マンドリン・スペインギター・ウクレレ

[*挿画]:digitalguitararchive/13-12-Study-of-Mandolin-and-Guitar,18-10-Study-of-Mandolin-and-Guitar



1948年:[楽器と弦は何を使っていますか?]各氏の声 より 楽器をとりあげます。

佐々木政夫 東京都 ①峯澤泰三氏ギター②カラーチェギター③イバニエツギター
石井金吾 川口市 ①トーレス②セゴビア③ビアンチ
武井守成 鎌倉市 ※ギターには言及せず
溝淵浩五郎 東京都 ①シュタウフェル②エンリケガルシャ
酒井富士夫 東京都 ①中出阪蔵氏製作
中野二郎 名古屋 ①ホゼ・ラミレス
福間日出子 東京都 ①宮本金八作 ラミーレス型
上田耕司 神戸 ①スペイン製無名コンチェルト・グランド型
郷 常夫 宮崎 ①ギターには言及せず
大古一朗 東京都 ①宮本金八氏手工ギター
新井久雄 富山市 ①ラミーレス型
中村登世子 東京都 ①シンプリシオ
阿部保夫 石巻市 ①ドイツ製(第1次大戦直後輸入されたもので作者名は判明せず澤口氏の買い入れたものを2,3の手を渡り所有)
山口信行 名古屋市 ①前田桂三作 手工品
荘村正人 名古屋市 ①峯澤氏手工品
飯坂虎次郎 東京都 ①宮本金八氏
寿楽光雄 東京都 ①中出阪蔵氏
小原安正 東京都 ①中出阪蔵氏②パノルモ
月村嘉孝 神戸市 ①イタリー製ファブリカトーン氏作
越智和夫 宇和島市 ①泉本一明氏作
横尾幸弘 日田市 ①カラーチェ
大橋左枝 岡山市 ①戦前は峯澤氏の手工品、現在はフランス製デシュネー②和声ラミレス型
近藤恒夫 大阪府 ①峯澤泰三作瑞峯
長野 努  高知市 ①峯澤泰三作筒入りガットギター

[*参照]:digitalguitararchive/1948-No.3/ギタルラ/P.18-P.24



1948年『理想的ギターの持つ条件』 -ギター製作論上よりみて- 小林 博 -全弦長の測定-の中で記載されていた当時の国産ギター

宮本金八:619mm / 峯澤泰三:639mm / 鈴木政吉:618mm / 前田桂三 / 矢入儀一 / 水野正次郎 / 間瀬宗一 /中出阪蔵 / 小野 / 泉本一明

[*参照]:digitalguitararchive/1948-02-No.2.pdf/P.15



1952年 雑誌「ギターの友社」が峯澤ギター取扱所として広告を出していた。

1952年 峯澤ギター
峯澤泰三・光自作手工ギター定価表








このページのギター製作家 : 宮本金八 峯澤泰三 中出阪蔵 加納 実  河野 賢 野辺正二 荒井史郎 鈴木政吉 

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宮本金八  Kinpachi Miyamoto

宮本金八
宮本金八 氏

1878年-1970年

東京出身。
西洋建築の大工の家に生まれる。

  • 1888年(明治21年)僅か10才の時に、創設間もない日本楽器(ヤマハ)に入社。
    当初は木製オルガンの修理に携わった。
    1910年頃からバイオリン修理及び製作を始め腕を上げていった。
  • 1915年(大正4年)自作第一号を製作。
  • 1919年 独立し、自宅で楽器製作を続けた。
バイオリン修理、製作技術は素晴らしいものがあり、東洋のストラディヴァリウスと言われ、国内外から高い評価を受けた。

1939年10月10日 「Nelly Z. Miravalles」嬢と「宮本金八氏のギター」

宮本金八
茂木宏友氏(左)、泉本一明氏(中央後ろ)宮本金八氏(中央前)、中出阪蔵氏(右)
日本のバイオリニストを多くを育てたモギレフスキーをはじめ、海外の一流のバイオリニストのクライスラー、ジンバリスト、ハイフェッツらにも絶賛したという。

バイオリン愛好者であったイタリアのムッソリーニに自作を贈っている。
科学者アインシュタインもバイオリン愛好家であり、1922年(大正11年)来日した際に、宮本の最も自信作であるバイオリンを試奏したという。
このバイオリンは、2000年(平成12年)遺族より武蔵野音楽大学の楽器博物館に寄贈された。

1957年 紫綬褒章を受章。
日本弦楽器製作者協会名誉会員。
弟子にガットギター製作で有名な中出阪蔵(1906~1993)らがいる。
享年92歳。

<森光俊様より情報提供>

[*挿画]:弦楽器フェア60回記念特別展示:「活躍された故人のバイオリン製作者」Facebookより
ヴァイオリン製作者 : 宮本金八氏(中央前)とその弟子、茂木宏友氏(左)、泉本一明氏(中央後ろ)中出阪蔵氏(右)


峯澤泰三  Taizo Minezawa

峯澤泰三
峯澤泰三

1899年-1978年

1899年 京都府生まれ

叔父の峯沢宮蔵に師事してVnの製作の技術を修得したが、その後独立して大阪に移り、Vn、 ギターの製作、修理をしていたが、終戦後東京に進出してVnを製作し、日本のVnの品質向上に 多大の貢献をした。

1915年弦楽器の製作に入り、1929年、世界のギターリストセゴビアの来朝を機にギター製作に一生を賭ける決心をする。その後30年本邦ギタリスト諸氏の古銘器を参考に峯澤泰三独特の甘みある音質を見出しました。


[編集者注: この記事は、1997 年に名古屋で中野氏に直接会う機会があったときに書かれたものです。中野氏は 2000 年 6 月 10 日に亡くなりました。 ]


https://www.digitalguitararchive.com/2012/01/jiro-nakano/

昭和44年12 月31日 逝去
手エギター製作者峯沢泰三氏
68歳ギター製作者であり,バイオリン製作も兼ねた。
世界的バイオリニストハイフェッツ氏に賞讃された。[*:1970年ギター日本]



中出阪蔵  Sakozo Nakade

宮本金八
茂木宏友氏(左)、泉本一明氏(中央後ろ)宮本金八氏(中央前)、中出阪蔵氏(右)

1906年-1993年

1906年(明治39年)4月1日、射和郡下蛸路(現在の松阪市下蛸路町)に生まれました。
小学校を卒業後、すぐに松阪の材木問屋に奉公に出されましたが、半年位した1919年(大正8年)念願の上京を果たし、ヴァイオリン製作家の宮本金八に弟子入り、以来宮本金八の下でヴァイオリンやマンドリン、スチールギター、更にはギタローネといった特殊楽器を製作していました。
転機となったのは1929年(昭和4年)アンドレス・セゴビアの初来日の際、特別にセゴビア使用のギターのコピーを許されたことで(実際に採寸したのは宮本金八)、これをきっかけに宮本金八の指示によりギター製作を開始することになりました。

1933年(昭和8年)同じ弟子であった泉本一明氏から話を持ちかけられ二人で宮本氏より独立、新宿の角筈へ店を出しました。
当時はまだギターの注文はほとんど無く、ヴァイオリンの注文で食いつないでいたような状態だった。

中出阪蔵の似顔絵
1952年(挿絵)中出阪蔵氏の似顔絵 亀井三恵子

1942年(昭和17年)肋膜炎を患い、転地療養と疎開も兼ねて妻の実家のある花岡町に戻る。
1944年(昭和19年)には下蛸路の実家近くに家を建てて移り住む。
その間もギター製作は継続、この頃にはヴァイオリンを離れギター製作に集中していた。

この時期、弟の六太郎が製作を手伝うようになり、また大工職人であった留吉も同様に阪蔵を手伝うようになりました。

六太郎は阪蔵が東京へ戻った後、あとを追うように上京。石神井に工房を構え独立、留吉も松阪の地で独自にギター製作を開始、昭和50年代前半まで製作。
松阪での阪蔵は本気で百姓をするつもりで田畑も借り米や野菜も作っていました。

しかし次男の敏彦氏の「これからの時代ギター職人である方が良い」という強い説得と、小原安正氏らに請われたこともあって1950年(昭和25年))東京に戻り、中野の城山町に移ってギター製作を続けました。

丁度その頃「ギターブーム」が興り、1955年代(昭和30年代)に入ってからは、阪蔵氏の元にもヴァイオリンの注文以上にギターの注文が舞い込むようになりました。

一時期は楽器さえ作れば作るほど売れるといった時期もあり、最盛期には月産30本程製作、30年代の10年間で3,000~4,000本を出荷していたと思われます。

中出阪蔵
中出阪蔵

ギター製作家としてその名が知られるにつれ、中出阪蔵の門をたたく者も増え、最盛期には15人もの弟子を抱えていたこともありました。
中出門下生は30人を超え、黒澤常三郎・田崎守男・中村 篤・中山 昇・今井博水らが独立、稲葉征司・井田英夫ら現在も活躍する製作家がいます。
また三人の子供(輝明、敏彦、幸雄)もギター製作家として独立していきました。

歴代ギタリストとも関係が深く、製作初期からより良いギターを目指し共に試行錯誤を繰り返していました。
製作にあたってはハウザー・ラミレスといった海外の銘器を研究・分析し、自らの製作に活かしていました。

1969年当時の広告にもブーシェ、トーレス、フレタなどのコピーモデルを提示しています。
ただどれだけ完璧にコピーしても、鳴りが良いとか音が通るとかの違いはあるものの出来上がったギターはやはり阪蔵氏の音色「中出トーン」でした。

  • 1979年(昭和54年)千葉県君津市に移住。
  • 1980年(昭和55年)最後の弟子の年季が明けてからは弟子を取ることもなく、次女光子の婿である志村二郎の手伝いをしながらのんびりとギター製作を続け、1981年(昭和56年)には志村二郎が中出阪蔵Ⅱ世を襲名。
    その後所沢へ移ってからも子供たちの協力を得ながら、平1993年(平成5年)入院される直前までギターを作り続けました。

    生涯ギター職人であり続けた阪蔵氏は、同年87歳で亡くなるまでに数多くのギターを世に送り出しました。
    それらはギター製作技術の向上のみならず、楽器を手にしたギタリストも育て上げ、日本のギター界に多大な影響を与えました。
  • [*引用]松阪ギター音楽協会HP 中出阪蔵氏 紹介より

加納 実  Minoru Kano

加納 実
加納 実

[引用]:Digital Guitar Archive/1958-05-04-Armonia.pdf /中野二郎:ギター製作家加納実(木鳴)より P.17/18

セゴヴィア愛用の名器トレスを最初にモデルにした。
『1895年 6月23日長野県下伊那郡下清内路村に生れ、現在名古屋市昭和区長戸町 2-28で日々ギター製作に励んでおられる 。
1910年より故鈴木政吉に師事すること 20年余。

1933年より 15年間ギター製作工場を経営終戦後高級ギター製作に志し 、最近は二世がやはり此の道に進まれることになり一層仕事の上にも励みを持たれるようになった模様である。
加納氏と私との関係は相当に古く氏の工場がまだ松山町に在った頃は日参して楽器を作って頂いたこともある。
その工場は不幸にも火災に逢ったが修繕中の二つの楽器は水浸しになってケースは見る影もなくなったが、幸にも中は助かりその一つは現在高橋氏が愛奏する一つになっている筈である。
更に高橋氏が未だ京城に在学中、加納氏と私は一緒に渡鮮して数日を共にした想い出もある。

今度高橋氏が渡欧するについて新たに高橋氏に贈られるギターが完成したので、この機に紹 介したいと思った。
そのギターは写真に見らるる如きもので、先ず楽器の生命とする音質とパランスがそれまでの同氏製作のものの中では断然ぬきんでている。
更に眼を眩るのは表面板を除いてギター全面に無数の骸骨が浮彫りされていることで、十七、八世紀の欧洲のギ ターに斯ういったものが見受けられるが現今では殆んど跡を断って いる 。


ギターの真摯な研究家である田村敏雄氏が同じ町に住んでいられるので同氏との交流が益々 よいものが生れる要因ともなって更に今後が期待される。』

河野 賢 Masaru Kohno

河野 賢
河野 賢

河野 賢 Masaru Kohno

  • 1926年-1998年

河野賢 1926-1998 河野賢は、ギター製作における偉大な人物の一人である。
東京高等工芸学校木材工芸科(現:千葉大建築科)を卒業し、1949年からギター製作を始める。
1960年、Arcángel Fernándezの工房に6ヶ月間滞在し、スペインの伝統を理解し、技術を高めることを決意する。(帰国は10月予定)
1967年、ベルギーで開催されたエリザベス・コンコース国際ギター製作コンクールで金賞を受賞し、世界的に認められるようになった。
審査員にはIgnacio Fleta、Robert Bouchet、Joaquín Rodrigo、Alirio Díazがいた。

[*引用]:Kohno Guitar Manufacturing Inc.

1959年5月初め
◎来日のセゴピアに日本のギターがいたく目をひき、日本のギター製作家を喜ばせた。
細工のよさそして音とセゴピアの旅情をなぐさめるものがあったその一つに河野野氏のギターがある。
或る日自作のギターを持参してセゴピアに見て頂いた折、それが大へんお気に召しそれから毎夜そのギターの音がセゴピアの部屋から 流れるようになった。
音も細工も大へん良い、持ち帰りたいが日本と風土の違うスペインには無理であろう。
外国でも狂わないギターを研究して下さい。私はあなたのギターが全世界のギタリストに愛奏される日の来るのを楽しみにしている とのお言薬を頂きました。
ギター作りをして12年の研究と労苦が報いられ河野さんは顔は明るい。(東京新聞より)

[*]digitalguitararchive/1959-06-03-Armonia P.52より

ジュリアン・ブリームと河野 賢
来日ジュリアン・ブリームと河野 賢

スペイン便り・・・河野賢
前略御無沙汰いたしました。出発の際はいろいろ有難うございました。
途中、ホンコン、カイロ、ローマ、ロンドン、パリ等見物して、予定通り20日にマドリーに着き、今日で約半月になります。
毎日暑く良い天気で、持参の食料等皆パリパリになり、鼻の穴も乾き過ぎて異常を感まじす。
持参した自作のギターは約1ヶ月になりますが、やはり乾燥のため表面板、裏板のふくらみが少なくなり、指板が縮んだためフレットが0.3ミリ程出て来ておりますが、乾燥と部屋のせいか気持良く嗚ります。
先日、故バルベーロの弟子の製作家フェルナンデスを訪ねました。
4坪位の店にギターが何台かおいてあり、すぐその奥に3坪位の仕事場があり、機械は何もなく弟子と2人でやっていました。
今の所毎日仕事を見に行っております。
作り方は全部手仕事で完全な手エ品です。
1ヶ月に3台しか出来ないと言っていました。
註文は約1年かかるらしいのですが、のんびりとやっています。
私の分として一つ註文しました所、特別に急いでも来年の4月までかかるそうです。

フェルナンデスの店から歩いて7,8分の所にホセ・ラミーレスの店があります。
やはり狭い店で、2階で仕事をしているのが窓越しに見えます。
ウインドに安物が何台かあり、店の中にもう少し高級なものが並んでいます。

今居る下宿から歩いて15分位の所にエステソの店があり、ここでは店で仕事もしています。
未完成のや古いものがいろいろおいてあります。
ここでは数も多く作るらしく、急げば2ヶ月で出来るそうですが、仕事の点でバルベーロの方が上のようです。
エンリケ・ガルシアの売り物がありましたが、音は非常に良いが、高音ハイポジションの伸びがやや不足なので残念でした。
1904年の作で、どこも悪い所がなく、邦貨で15万円位です。

現在マドリーには10人近くの製作者がいるそうで、みな大同小異の方法で作っているようです。
スペインではギターは案外安く、註文で作る最も良いので邦貨に換算して6万~8万円位まで。
やはりピンからキリまであり、3千円位からありますが、1万5千円位からだんだん良くなります。

それでも日本に輸入すれば航空運賃、税金、諸経費等で少くとも2倍以上の価格になると思いますが、現地価格で同価格位の日本のギターと比較すると、日本のギターの方が価格が劣るようです。
仕事自体も、ギターにとって必要な所はなかなか良く出来ています。
日本のギターはあまりにも表面の細工にこだわりすぎるようです。

先日から、フェルナンデスの紹介でギター演奏の基礎を習い始め、2回ばかりレッスンを受けました。
セゴビアにも習った事がある60才位の先生ですが、その確実なテクニックと厳格な教授法に感心しました。 又、その娘さんのうまくひくのにも驚きました。
フェルナンデスはフラメンコの方が得意で、日本の誰よりもうまくひく位です。
いろいろ伝統のある国の基礎的な相違を実感して、大きな犠牲をはらってスペインにやって来たことに満足感を持っています。
では取りあえず第一報をお知らせします。お元気でおすごし下さい。

[*]digitalguitararchive/1960-53-ギターの友

野辺正二 Masaji Nobe

野辺正二
野辺正二
発行所:現代ギター社/安達右一・監修【GG番号】GG090>
 

野辺正二 Masaji Nobe

  • 19??年-2004年

1945年、野辺手工ギター工房は当時、東京の指物職人であった先代の野辺幾衛がその技術を生かしギターの修理をすることから始まります。
その後、修理にとどまらず次第にみずからも製作するようになり、クラシックギターの製作を専門に行う工房として確立されました。
現在の工房は1965年野辺正ニが独立開業しスタートしました。その後二人の息子が入り現在親子三人でギターを製作中。
野辺手工ギター工房では、常に妥協を許さない完全な手作りで納得の行く決してあきの来ない優美なる音の追及をモットーに一本一本丁寧に仕上げていきます。
創業以来たくわえられてきた貴重な材木を使用し、(当工房では最低でも30年以上自然乾燥した材木を使用しています)先代より受け継いだ世界一といわれる日本の伝統的な木工技術を駆使し、また長年にわたりギター製作に対する知識と経験を重ね日本を代表するクラシックギターを製作しています。

[*引用]:野辺ギター工房

荒井史郎 Shiro Arai

荒井史郎
荒井史郎

1930年-年

荒井史郎 | プロフィール | HMV&BOOKS online | 昭和5年(1930)2月16日、名古屋市に生まれる。昭和22年(1947) 1956年 創業
1960年 アリア ブランド発足
1963年 エレキギター販売に着手

※エレキ販売当初はソリッド(ビザール)ギターが中心であったが、すぐにセミアコ・フルアコを主軸に置き換えるという販売戦略にシフトする。製作は『マツモク工業』

1964年 国内向け国産楽器の販売に着手
1966年 アリア・ダイヤモンド ブランド発足⇒商標の問題でアライ・ダイヤモンドに改名

※この時期のエレキギター及び関連商品は『Aria Diamond』ブランドを使用している場合が多い。
1975年 アリアプロⅡ発足

●「中部日本ギター協会設立」
10月25日、上記趣意書を中部地区のギター関係者宛に送付。
発起相談人:中野二郎、田村敏雄、伊東尚生、荒井史郎
発起準備人:後藤昌治、望月英男、近藤洋令、武山 勇
荒井貿易 (株) 相談役, 中部日本ギター協会名誉会長, ジャパンギターアソシエーション会長

ラミレス・ギターやオーガスチン弦の輸入など、クラッシックギター 関連の輸入業のパイオニアである荒井貿易株式会社の創立者、荒井史郎が 長年にわたる自身とギター業界との関わりを、時代を追って綴った自叙伝。

中野二郎、オーガスチン、セゴビア、河野賢、渡辺範彦・・・・、ギターと人が 織り成す豊富なエピソードと、貴重な写真満載。

鈴木政吉 Masakichi Suzuki

鈴木政吉
鈴木政吉

鈴木政吉 Masakichi Suzuki [ 1859年-1944年 ]

日本のバイオリン王

[*1]明治期,オルガン,ピアノなどの鍵盤楽器と並んで,音楽教育の実施のためにヴァイオリンなどの弦楽器も取り入れられた。
音楽教育へのヴァイオリン供給を産業化したのは,名古屋で三味線の製作をしていた鈴木政吉(1859~1944)である。

その起業は現在の鈴木ヴァイオリン製造株式会杜に引き継がれている。
よって鈴木ヴァイオリンは,ヤマハと同様に明治以来現在にまで存続する楽器メー力一として,産業論的にも意味深いものがある。

鈴木政吉は,名古屋で試行錯誤をくり返してヴァイオリン製作を手がけるが,1889年(明22),その試作品数丁を東京音楽学校でヴァイオリンを指導する教授に判定を依頼。

好評を得ると,伊澤修二から山葉寅楠と同様に銀座の共益商社への紹介を受け,その後さ らに西の三木佐助と契約を結び,寅楠と同じ販売ルートを確立している。
そのため,鈴木も販売ルート拡大のために経費投資や苦慮することなく,楽器製作だけに打ち込むことが できた。

なお,現在もヤマハは弦楽器製造に,鈴木ヴァイオリンは鍵盤楽器製造にそれぞれ事業拡大をしないのは,この時期,共益杜の仲介の元で成った相互合意によるものであ る。

[*1] 出典:近現代日本における洋楽器産業と音楽文化/大阪大学, 1998, 博士論文/田中健次[*1]
[*挿画]鈴木バイオリン製造株式会社 鈴木政吉物語より


  • 1914年(大正3年) ギターの製作発売する
  • 1916年(大正5年) 第一次欧州戦争の関係により海外よりの注文が激増し、石神堂町にも分工場を新設する
  • 1917年(大正6年) 8月4日、勅定による緑綬褒章を拝受する
  • 1944年(昭和19年) 鈴木政吉 永眠
    戦火により楽器製作全面的廃止となる
  • 1945年(昭和20年)
  • 戦後、恵那工場でバイオリン、ギターの製造を再開する

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