Akira Kawase: Recital in Nagoya in 1920??-1924??

川瀬 晃ギター独奏会 (名古屋)

名古屋 川瀬 晃 独奏会

[*挿画]:digitalguitararchive/1959-47-ギターの友/P.11


[*前列左より]:3人目 伊藤弁護士、中央 川瀬 晃、7人目 中野二郎、右端 河合 博
[*後列左]:景文堂 主人

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みちくさ半世紀(8) 中野二郎

名古屋 川瀬 晃 独奏会
同好の士の中で特に熱心だった者が自然に親しさを増していった。
その頃大阪で盛に活躍していたギタリストで川瀬晃がいた。
桑名出身で大阪の住友肥料に勤めていたが、二郎が偶々桑名の同好者の指導に行っていた関係で、よくその評判をきくので会ってみたいと思っていた。 桑名では「あの大風呂敷」と言はれていた、が二郎には決して大風呂敷とは受取れなかった。
文通してみると成程「燕雀何んぞ大鵬の志を知らんや」の気概があった。

行ってみると下宿では土蔵の中に特製の書棚を置いて古い楽譜を秘蔵し古典の研究をしていた。
他のギタリストがタルレガのカプリチョ・アラベに夢中になっている時彼だけはカルッリ、カルカッシ、ソル、ヂュリアーニ、レニアーニばかりやっていた。
ボロボロになった古い楽譜を見せて『日本に一つしか入らなかった』と言われて二郎は正直羨望に唾をのみこんだ。 一歩先んじていた。
如何ようにして楽譜を手に入れるかは決して明かさなかった。
勿論楽譜は門外不出であったし、解り切っているので貸してくれとは言い出せなかった。
然し二郎はそうしたお蔭でどれだけ闘志を燃やしたかわからない。
二郎は彼を招いて名右屋で初めてギターの独奏会を開いた。

当時はギターの面でも「マンドリンギター研究」がとゆうより武井氏が斯楽をリードしていたが、彼だけは独自の道を歩いていた。
プログラムに現れるものも皆誰も親しんたことのないようなものばかりだった。
ロッチのタルレガ教則本がアメリカで出版されて間もない頃で皆そちらに眼を奪はれ、古典等は見向きもしない中で、古典ギターの研究的な独奏会を開いていった。
コスト、メルツのものを最後に中絶して了ったが、その頃のMG誌には武井氏の評が出ている。

その頃の名古屋の専門学校(高エ、高商)医大、八高には夫々マンドリンクラブがあって熱心な者を中心にお互に技を競っていたが流石に楽器に夢中になって学業を放ったらかすような者はいなかった。

従って二郎は凡てにあきたらなかったが、八高の河合 博だけは違っていた。
大きな病院長の御曹子で考えていること、やることが他の学生の趣とは達っていた。
素人劇のバックに流す音楽の演奏を共にしたのがきっかけで次第に親しくなっていった。

二郎の貧乏生活を見て「音楽の勉強は楽学でなければ駄目」とゆうようなことを平気で言った。
少しづつわかりかけた二郎はこの言葉には真底打ちひしがれて了った。
背水の陣をしくつもりで絵具も筆も友人にやって了った二郎は、今更自分の志を変えることが出来ようか。
冷い布団の中にもぐり込むと二郎は幾日もこの到底のがれることの出来ない壁のことを考えて暗胆とした。
然し二郎のゆく道が他に何があろう。
人は人名を為さんとして始めたことではないのだから自分は自分に与えられた運命のもとで音楽をやって行こうと次第に落付きを取り戻していった。
但しどんな結果になろうと後悔しないことを幾度も自分に言いきかせた。

第一次欧州大戦直後(*1918年11月)、名古屋の中心地に伊藤景文堂とゆう楽器店が小さな店を持った。
専ら楽器や楽譜の直輸入をやっていたので二郎は限々出かけてギターやマンドリンの楽譜の輸入を促した。
次第に楽譜が入るようになると熱心な者達はよく此処で顔を合はせた。
二郎が川瀬晃を招いてギターの演奏会を開いてから河合博と三人は急速に親しさを増していってよい楽器を何とかして手に入れようとゆう相談が煮えていった。
先づ景文堂を通じて、英国のポーンから名器の写真を取寄せた。

シュタウフェル、ラコート、パノルモ、リース他二十数種あった。
値段はいづれも20磅(ポンド)から30磅(ポンド)であった。・・・[*註]当時:1ポンド≒2.4万円
二郎は勿論金のあてはなかったが何としても手に入れておかねばならないと思った。

三人は鳩首夫々の楽器を撰んだ。
川瀕はレゴンデイがその門弟ガイスフォードに与えたシュタウフェル、河合はジュリアーニの高弟ホレッツキイの使っていたラコート、二郎は.パノルモであった。
二郎が金のあてもないのにそうゆうことをしたのはあとにも先にもないがこの時ばかりはそうしなければいても立ってもいられなかった。
凡てを擲(なげうつ)ってそれを志す者がそうでない二人の後えに立って見送らねばならないことは到底耐え得られることではなかった。
然し二郎にはどう逆立してみたところでそんな金のエ面が出来るわけがなかった。楽器を待っ心と、一日もおそかれと願う心が烈しく相剋した。
河合の広い家で荷が解かれた時三人は夫々の楽器を手にして興奮した。夫々に秘められた百年の歴史を想った。夫々の音色があった。
荷造りの不備で街んでいたり修繕のあとはあったが、駒にも絃巻にも形にも見慣れた安物とは雲泥の差があった。
二郎は楽器をかき抱きたい気持だった。
然し二郎は現実にこの楽器を持って帰ることは出来ないのだと思うと次第に憂鬱になっていった。
大凡そを察した河合は「代金は母が払ってくれたから持って帰りなさい」と言った。二郎は信じられなかった。
ひとこと母に挨拶してくれればよいと言った。 二郎はそれまでに色々な人から「東京に出るとよい」とか「一度イタリーに行ってくることだ」等と何度言われたか知れないが実質的に援助を与えられたことは一度もないので自分の耳を疑った。
神未だ我を捨てたまわずの想いだった。
別に神を信じていたわけではなかったが、河合の好意を思うと二郎は涙のにじみ出るのを抑えることは出来なかった。
おのが意向に添わなければ見向きもしない親戚等とは何という距りだろうと思った。
二郎が深刻に惑謝の意を表したら河合は笑って「そんなに負担に思わなくてもいいんだよ」と言ってくれたが二郎はいまだにこんな経験は例外だと思っている。

河合は東京の大学に去りエトワールに入っていたが、その年マンドリンコンコルソに優勝したので名古屋に招いての演奏会には二郎は根かぎり奔走した。
もみあげを長くのばした田中という指揮者がハデな指揮をしたが、チェロの斎藤、指揮の近衛などという人のイキがかか っているだけその頃のエトワールは立派であった。

大正十四年の終り頃リュートとマンドリンの名手ラファエーレ・カラーチェが来朝した。
後に自殺した近藤柏次郎をピアノ伴奏者として名古屋でも公演したので、二郎はピアノの譜めくりを仰せつかった。
各地の公演続きでカラーチェの指は見るも無惨にひゞわれていて血が滲み出ていた。
リュートでひどく指が荒れるのであろう。
どうしたわけかステージで急にカラーチェが伴奏者と楽屋に引込んで了った。
二郎は所在なさにそこに置いてあったカラーチェの楽器を羨しそうに眺めていたら突然拍手が起こった。
どうゆう意味か知ないが二郎に向って拍手しているらしいので二郎は完全にてれて了った。

楽屋では顔なじみになっていた大正琴の発明者の森田吾郎氏が「私がイタリーに行けるように話をしてやる」と言うので半信半疑でいたら、二郎を呼ぷのに右手の人さし指を上向きに曲げて、Come hereと言いカラチーエの前では何も言えないので二郎は馬鹿ばかしくなった。
若い頃川上貞奴について欧米を廻ったらしく何かにつけてアチラではと来たがしやべれるわけではなかった。
プログラムのノクターンを見て「ははア之は戸を叩く音をもとにして作った曲だナ」と独り合点していた話は有名である。
然し日本の笛はよくし、天性音の出るものを工夫することが好きな人のようであった。
神信心に厚く大正琴で新築した家は椽も高く端のそり上った手すり等があってお社そっくりだったが、好人物で自分の言ったことに責任の持てるような人ではなかった。
マンドリンの智識がそれ程あるとは思われないのに「マンドリンの勉強はイタリーでなければ駄目だよ君」と言いカラーチェにつかせてやると言うので本当か知らんと二郎は思ったが来て見ればそんな有様で、カラーチェが去ってもヶロンとしていた。
二郎にとって嬉しがらせは言ってくれない方がましであった。
人はみなそんなものと考える方が無事であった。
後年二郎が人生いろはかるたを思いついた中に「期待は失望のもと」というのがあるが、失望したくなければ期待しないに限る。
二郎の淡い期待は片端から崩れて一っも実りそうなものはなかった。


1959-47-ギターの友/p.12-P.13

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