1914年 - 年
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深沢 七郎(ふかざわ しちろう)1914年〈大正3年〉1月29日 - 1987年〈昭和62年〉8月18日)
日本の小説家、ギタリスト。
山梨県出身。
職を転々とし、ギター奏者として日劇ミュージックホールに出演。
『楢山節考』が正宗白鳥に激賞され、異色の新人として注目を集めた。
「中央公論」に発表した『風流夢譚』に関わる右翼テロ事件(嶋中事件)後、筆を折った時期もあったが、土俗的な庶民のエネルギーを描いて独自の作品を発表し続けた。
農場や今川焼屋を経営したり、ギター・リサイタルを開催したりと多くの話題を残した。
他に代表作『笛吹川』『東京のプリンスたち』『庶民烈伝』『みちのくの人形たち』など。
[ 私とギター深沢七郎 ]
ギターを弾くことは病むことと同じだと私は思う。
どう抵抗しても弾くことはやめられない。
それは,病気にかかったと同じ状態のようだ。肉体の病気は苦痛を伴うが楽しい衝動もまた平常ではないと思う。
絵を画くこと登山をすることもまた一種の病気だと私は思う。
小説を書くことも,,また,病気だと思う。書きたくなる衝動も普通の状態ではないようだ。
ギターも小説も病気だけれども楽しい。苦痛も快楽も平和な状態ではないのだ。
ギターを弾いてリサイタルをする。それは,私自身の告別式だと私は考えている。
それは,病状のひと駒の終焉となるだろう。リサイタルの翌日から次のひと駒に移る一一生れるのだと考えている。
過去,私は何回かのリサイタルを開いたがそのたびに私は自分の告別式をしたのだ。
そのたびに私の終焉を迎え,そのたびに私は生れ変ったように思っている。
また,自分勝手な考えかただが私の告別式に花束や花輪が邪魔物だからリサイタルにも邪腐だと思うのである。
正宗白鳥は自分の告別式に花や金銭を辞退した。その心を私はよく知ることが出来るのである。
ギターを弾いて, 私はもう40年もたつだろう。
いま,私は農業をやっていて,そのあいまにギターを弾く。
そんな無理なギタリストだが,こんどリサイタルを開いたのは小栗孝之の曲を弾きたいからである。
彼は1943年に戦争の召集に遇い, 1944年レイテ島で戦死した。私の友人だが,また師のようであった。
彼の曲を弾くには技巧的に困難だったので公開するには負担が重いが彼の曲を弾いて25年・・・
・・・彼の曲をはじめて知ったのは1 938年頃だったと思う・・・満足には弾けないが,なんとなく,なにかが,私に彼の曲を弾かせるのである。
また,これを機会に彼の作品集を刊行することにもなった。誰かが,彼の曲を弾くかもしれないという余韻がするのである。
そんな余韻が響けばとこんどのこのリサイタルを開く衝動に駆られた。
「紡ぎ唄」の楽譜の終りは1937年7 月2 日ーー1943年3 月3 日と記してあるがその5 年のあいだに何回も作りなおしたのである。
その譜には少年のような感傷的な詩のような文字がかいてある。
—母に手をひかれて,夜更けの使いの帰り途,淋しい冬の田舎道とある煤家で糸車の音が聞える。
老母らしい農場の唄が単調な糸車の響に和して聞える。寒い夜更けだ。木枯がひとしきり吹いてゆく。
沓い幼い日の想い出は,都会の片隅で,劇しい生活の疲れに息吐く時,何時も甦って来るのだ。・・・
(深沢七郎ギターリサイタルプログラムより)
深沢七郎選集/全3 巻各6 9 0 円
大和書房刊行I 全粗屏説/ 日沼倫太郎推煎/小林秀雄井伏樽二武田泰淳
全国書店にあり。品切の折はギター日本社にお申込下さい。(送料不要)
第1 巻くエッセイ・対談>
言わなければよかったのに日記・とてもじゃないけど日記・変な人だと言われちゃった日記*詐葉の母・思い出多き女おッ母さん・思い出多き女おきん・自信と二ろどころ•生態を変える記*流浪の手記・風雲旅日記*銘木さがし・騒げ、騒げ、もっと騒げ・小林秀雄先生のこと正宗白鳥的感傷・悪批評と好批評・物と事・ささやき記・お歳暮と年賀•音楽ノート*やっばり似たもの同士・ウジムシと大神さま・ぼうふらと太閤秀吉•おお、マイ・フィアンセ
第2 巻く中・短篇小説>
揖山節考・東北の神武たち*流転の記・数の年令・脅迫者・・去年の秋・木曾節お六•三つのエチュード*ろまんさ・絢爛の椅子・女中ポンジョン・東京のプリンスたち
第3 巻く長篇・未発表作品〉
笛吹川・サロメの十字架*日本風ポルカ・支那風ポルカ・澪詣風ポルカ・講談風ポルカ・江戸風ポルカ・廊風ポルカ・ポルカ・アカデミカ・歌舞伎風ポルカ・編曲風ポルカ・浪曲風ポルカ・自叙風ポルカ・白笑・狂鬼茄子•他
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[*転載]:digitalguitararchive/08-ギター日本.pdf