Itsukushima Perry

Composers who influenced Western music, mandolin and guitar music in the Meiji period明治時代の西洋音楽、マンドリン・ギター音楽に影響を及ぼした作曲家たち

明治時代において、西洋音楽やマンドリン・ギター音楽に影響を与えた日本人作曲家たちには、以下のような人物がいます。

武井守成(たけい もりしげ)
武井守成は、マンドリンとギターの普及に大きく貢献した作曲家であり、1924年から1941年まで「マンドリンとギター研究」という雑誌を発行しました1。彼の活動は、マンドリンとギターの演奏技術やレパートリーの拡充に寄与しました。

山田耕筰(やまだ こうさく)
山田耕筰は、日本のクラシック音楽の先駆者であり、オペラや交響曲など多くの作品を残しました。彼の作品は、西洋音楽の影響を受けつつも、日本独自の音楽文化を融合させたものでした。

田中常彦(たなか つねひこ)
田中常彦は、マンドリンオーケストラの指導者として知られ、数多くの演奏会を開催しました。彼の指導のもと、多くの若い音楽家が育ちました。

菅原明朗(すがはら めいろう)
作曲家: マンドリンとギターのための楽曲を多く作曲し、演奏会でも活躍しました。彼の作品は、日本の音楽シーンに新しい風を吹き込みました。
音楽教育者: 音楽教育にも力を入れ、後進の育成に努めました。

これらの作曲家たちは、明治時代の日本における西洋音楽の受容と発展に大きな影響を与えました。彼らの努力と情熱が、現在の日本の音楽文化の基盤を築いたと言えるでしょう。

大田黒元雄(おおたぐろ もとお)
音楽評論家: 日本初の音楽評論家として知られ、クラシック音楽の普及に尽力しました。彼の評論は多くの音楽愛好家に影響を与えました。
音楽と文学社: 1916年から1919年まで、堀内敬三や野村光一と共に「音楽と文学社」を設立し、同人誌『音楽と文学』を刊行しました。

堀内敬三(ほりうち けいぞう)
洋楽普及の先駆者: 日本放送協会(NHK)でのプロデューサーとして、洋楽の普及に大きく貢献しました。彼の番組制作は、日本における洋楽受容を広げる一助となりました。
多才な活動: 作曲家、作詞家、訳詞家としても活動し、音楽教育にも力を入れました。

野村光一(のむら こういち)
音楽評論家: 大田黒元雄と共に音楽評論を行い、日本のクラシック音楽の普及に貢献しました。彼の評論は、音楽愛好家や演奏家に大きな影響を与えました。
教育者: 音楽教育にも力を入れ、多くの若い音楽家を育てました。




[このページの紹介者 :音楽評論家・作曲家・作詞家・音楽歴史家]    斎藤太計雄 ・ 永田哲夫 ・伊福部 昭  ・深沢七郎 ・松田一夫 ・遠山一行  ・濱田滋郎

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斎藤太計雄 Takeo Saito

斎藤太計雄
斎藤太計雄

斎藤太計雄 Takeo Saito

1933年 国立音楽学校(現大学)ピアノ科卒業。
同研究科、作曲科を2年間先行。
戦前から戦後には自作自演にて地方各所を廻る。
1935年 以来、澤口忠左衛門氏の厚意により、再度演奏会に出演。
さらに故溝淵浩五郎氏、酒井氏、縄田氏、山本氏、子相馬氏などの厚意により、放送、演奏会に各地で発表。
1941年 大編成管弦楽による祭典舞曲はワインガルトナー博士賞を授与された。
現在、ピアノ音楽友の会主催、後進の指導のため尽力、さらに上智大学ソフィアギター部の指導にも力を注ぐ。

永田哲夫 Tetsuo Nagata

永田哲夫
永田哲夫

永田哲夫 Tetsuo Nagata

作詞家
1912年(明治45年)1月23日生 東京都

東京薬科大学卒、明治大学政経学部中退、服部正に師事。

ギターコンクール、ギター作曲コンクールの審査員を歴任する。
東京ギターアカデミー教務主任。

ギター曲作品に「祭典に寄す・雨の庭」その他がある。


「東京ギター人の集い」
第1回は永田哲夫氏宅にて2月24日[*1938年]夜開かれた。
出席者は伊藤翁助、酒井富士夫、平山英三郎、北澤照子、小原安正、佐々木政夫、弓削多喜子、横山志智子、渾邊敏夫、大岡延夫、永田哲夫の諸氏、散会12時半、ビラストロ絃及び其の他ガット絃と代用品等に対する研究、本邦ギターと外国ギターの比較、ターレガ作品演奏の各説、故リヨベットの演奏に就いて等が活題となった。

第2回は本年(*1939年)1月28日夜同所に開く。
出席者は齋藤太計雄、平山英三郎,小原安正、藤村 観、佐々木政夫、澤邊敏夫、小山喜美子、加膝俊輝〈音楽新聞記者)、佐藤喜一郎、永田哲夫の諸氏、散会12時。
ギター団体の結成、今年の斯界展望、ギター教授者の教化策、ギター曲出版者への積極的交渉,斎藤太計雄氏の意見、本邦ギター曲作曲の展望等が話題であった。
第三回は3月4日開かれる予定(以上永田氏報)

digitalguitararchive/1939-73-Armonia/P.35

伊福部 昭 Akira Ifukube

伊福部 昭
伊福部 昭

伊福部 昭 Akira Ifukube

伊福部 昭(いふくべ あきら、1914年〈大正3年〉5月31日 - 2006年〈平成18年〉2月8日):釧路市
は、日本を代表する作曲家の一人。
ほぼ独学で作曲家となった。
日本の音楽らしさを追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くのオーケストラ曲のほか、『ゴジラ』を初めとする映画音楽の作曲家として、また音楽教育者としても知られる。

日本の作曲家。位階は従四位。
1914年(大正)5月31日 北海道帝国大学農学部林学実科学校に入学。文武会管弦楽部のコンサートマスターとなる。
1933年(昭和10年) 19歳。アマチュアギター奏者であった次兄・勲のために、ギター曲『ノクチュルヌ』を作曲。 1934年 「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーらとともに、「新音楽連盟」を結成。
1935年 21歳。大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務。 1935年 パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が開催され、伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった。 1946年 東京音楽学校(東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆が伊福部を作曲科講師として招聘。 芥川也寸志、黛敏郎、松村禎三、矢代秋雄、池野成、小杉太一郎、山内正、石井眞木、三木稔、今井重幸、永瀬博彦、和田薫、石丸基司、今井聡、など多くの作曲家を育てた。


[出典]:Wikipediaフリー百科事典より

深沢七郎 Shichiro Fukazawa

深沢七郎
深沢七郎

1914年 - 年
[出典]: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

深沢 七郎(ふかざわ しちろう)1914年〈大正3年〉1月29日 - 1987年〈昭和62年〉8月18日)
日本の小説家、ギタリスト。

山梨県出身。
職を転々とし、ギター奏者として日劇ミュージックホールに出演。

『楢山節考』が正宗白鳥に激賞され、異色の新人として注目を集めた。
「中央公論」に発表した『風流夢譚』に関わる右翼テロ事件(嶋中事件)後、筆を折った時期もあったが、土俗的な庶民のエネルギーを描いて独自の作品を発表し続けた。

農場や今川焼屋を経営したり、ギター・リサイタルを開催したりと多くの話題を残した。
他に代表作『笛吹川』『東京のプリンスたち』『庶民烈伝』『みちのくの人形たち』など。


[ 私とギター深沢七郎 ]
ギターを弾くことは病むことと同じだと私は思う。
どう抵抗しても弾くことはやめられない。
それは,病気にかかったと同じ状態のようだ。肉体の病気は苦痛を伴うが楽しい衝動もまた平常ではないと思う。
絵を画くこと登山をすることもまた一種の病気だと私は思う。
小説を書くことも,,また,病気だと思う。書きたくなる衝動も普通の状態ではないようだ。
ギターも小説も病気だけれども楽しい。苦痛も快楽も平和な状態ではないのだ。
ギターを弾いてリサイタルをする。それは,私自身の告別式だと私は考えている。
それは,病状のひと駒の終焉となるだろう。リサイタルの翌日から次のひと駒に移る一一生れるのだと考えている。
過去,私は何回かのリサイタルを開いたがそのたびに私は自分の告別式をしたのだ。
そのたびに私の終焉を迎え,そのたびに私は生れ変ったように思っている。
また,自分勝手な考えかただが私の告別式に花束や花輪が邪魔物だからリサイタルにも邪腐だと思うのである。
正宗白鳥は自分の告別式に花や金銭を辞退した。その心を私はよく知ることが出来るのである。
ギターを弾いて, 私はもう40年もたつだろう。
いま,私は農業をやっていて,そのあいまにギターを弾く。
そんな無理なギタリストだが,こんどリサイタルを開いたのは小栗孝之の曲を弾きたいからである。
彼は1943年に戦争の召集に遇い, 1944年レイテ島で戦死した。私の友人だが,また師のようであった。
彼の曲を弾くには技巧的に困難だったので公開するには負担が重いが彼の曲を弾いて25年・・・
・・・彼の曲をはじめて知ったのは1 938年頃だったと思う・・・満足には弾けないが,なんとなく,なにかが,私に彼の曲を弾かせるのである。
また,これを機会に彼の作品集を刊行することにもなった。誰かが,彼の曲を弾くかもしれないという余韻がするのである。
そんな余韻が響けばとこんどのこのリサイタルを開く衝動に駆られた。
「紡ぎ唄」の楽譜の終りは1937年7 月2 日ーー1943年3 月3 日と記してあるがその5 年のあいだに何回も作りなおしたのである。
その譜には少年のような感傷的な詩のような文字がかいてある。
—母に手をひかれて,夜更けの使いの帰り途,淋しい冬の田舎道とある煤家で糸車の音が聞える。
老母らしい農場の唄が単調な糸車の響に和して聞える。寒い夜更けだ。木枯がひとしきり吹いてゆく。
沓い幼い日の想い出は,都会の片隅で,劇しい生活の疲れに息吐く時,何時も甦って来るのだ。・・・
(深沢七郎ギターリサイタルプログラムより)

深沢七郎選集/全3 巻各6 9 0 円

大和書房刊行I 全粗屏説/ 日沼倫太郎推煎/小林秀雄井伏樽二武田泰淳

全国書店にあり。品切の折はギター日本社にお申込下さい。(送料不要)

第1 巻くエッセイ・対談>
言わなければよかったのに日記・とてもじゃないけど日記・変な人だと言われちゃった日記*詐葉の母・思い出多き女おッ母さん・思い出多き女おきん・自信と二ろどころ•生態を変える記*流浪の手記・風雲旅日記*銘木さがし・騒げ、騒げ、もっと騒げ・小林秀雄先生のこと正宗白鳥的感傷・悪批評と好批評・物と事・ささやき記・お歳暮と年賀•音楽ノート*やっばり似たもの同士・ウジムシと大神さま・ぼうふらと太閤秀吉•おお、マイ・フィアンセ
第2 巻く中・短篇小説>
揖山節考・東北の神武たち*流転の記・数の年令・脅迫者・・去年の秋・木曾節お六•三つのエチュード*ろまんさ・絢爛の椅子・女中ポンジョン・東京のプリンスたち

第3 巻く長篇・未発表作品〉
笛吹川・サロメの十字架*日本風ポルカ・支那風ポルカ・澪詣風ポルカ・講談風ポルカ・江戸風ポルカ・廊風ポルカ・ポルカ・アカデミカ・歌舞伎風ポルカ・編曲風ポルカ・浪曲風ポルカ・自叙風ポルカ・白笑・狂鬼茄子•他


[*出典]: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

[*転載]:digitalguitararchive/08-ギター日本.pdf



松田一夫 Kazuo Matsuda

松田一夫
松田一夫

出典: 『ギターの友』
演奏会評
創刊号(9月号) セゴピアーナオ五回演奏会松田一夫 [1952年]
第2号(10月号)カステルヌォポ・テデスコ作 ギター協奏曲二町長 松田一夫
第4号(12月号)京本・玖島ジョイントリサイタル評 松田一夫
第6号(2月号)批評について 松田一夫
第8号(4月号)演奏について 松田一夫
第9号(5月号)セゴビアーナ第六回演奏会評 松田一夫
第10号(6月号) 対談  小船幸次郎・松田一夫
第11号(7月号)奥田紘正独奏会評 松田一夫
第11号(7月号)何とかならないか 松田一夫
第12号(8月号)論壇 即刻退陣すべし 松田一夫
第13号(9月号)論壇 執箪者を厳選せよ 松田一夫
第16号(12月号)演奏会評  縄田政次独奏会 松田一夫
第18号(5月号)音楽のききかた(上) 松田一夫
第19号(3月号)音楽のききかた(下) 松田一夫[1957年]
★ここから先の 執筆は無い!第63号(6月号)まで

論壇
執筆者を厳選せよ
-本誌編集部に物申す- 松田一夫
公刊雑誌はそれが営利的であろうとなかろうと、読者に対して無費任であってよいはずはない。
ジャーナリズムは恐るべぎ権威と猛威を持っている。誤って猛威となるか、正しく運用されて権威となるか、それは編集者の善慈と自覚に基ずくものである。
「ギクーの友」は現在までのところ吾国唯一の月刊雑誌として、この一年間幾多の問題を提起してきた。個々についての良否は問うまい。とに角、主義主張を明らかにしている点と読者が毎号を注目している点では、日本ギクー界空前の編集振りである。
一年後までの主な編集計画と主催事業及び会場の交渉まで既に完了しているという事実だけでも、今や典味的個人雑誌の域を脱し、本格的公刊誌としての第一歩を踏み出したものと言えよう。
微弱な限られたギクー界と云う範囲で、中偽と取営褒貶をよくぞ乗り越えてきたものである。古い保守的なものを捨てることはどんな時代にも想像以上の勇気と努力を要する。
にも拘わらず、有能であれば新旧老若を問わず執築陣に起用し、利宙打算を忘れて多くの人の革新的な窓見を採り上げた。時にディスカッジョンを歓迎し、時に投稿を忠実に選んだ。
その間に斯界の一部からは猛烈な反柴を咬った。だがこれこそ、本当に芸術を愛し、真実に生きようとする若い編集者の情熱以外の何ものでもない。
そして進んでこれを支持する読者の力により「ギクー友」は創刊一過年を待たずして、吾国ギクー界始って以来の圧倒的発行部数を持つようになった。
編集部では今後l年間に、更に二千部の普及を目標とし、本文七十頁前後、売価一部五十円を夢見ていると言う。
勿論これでは一銭の利益も上るまい。利益が上ればその全部原稿料に注ぎ込んでも内容の充実を期すると言う。まことに結構、吾々も助かると云うものである。
アメリカの音楽雑誌にしてからが、「ミュージカル・アメリカ」― 十四頁で一_ 一十七ント、「ミュージカル・クーリャ」=―十四頁で二十五セント、「ニテュード」六十頁で四〇七ント、と云った具合だから仲々どうして難しい問題であろうが。 以上この辺までは編集部の意慾を称讃しておこう。

ところでこれ程意慾的且つ恢重な「ギターの友」にして、執策者の選衡には重大な手落ちがあった。
クラシック・ギクーの専門誌を以て任じるこの雑誌が、軽音楽・流行歌の関係者に大切な記事を書かしているのはどう云うことだ。
何も知らぬ全国の読者は、まさかこの雑誌の執籠者にこんな異物が混入していとは御存知あるまい。
だからこそ「ギクー友」の記事に絶対の信頼はおいて金百円也を毎月支払っているのである。
一般の読者は公fされた出版物の記事は一応その道の権威者が害いているのだからと鵜呑みに信じる通弊がある。
それだけに編集者は一層筵者を厳選し、記事を検討しをければなるまい。
それが読者の信頼に応える編集者の心掛けであろう。発行部数が多ければ多い程これは大切な問題である。

問題の執鉦者は横尾幸弘氏である。
実は私自身この人をクラシック音楽界の人だと思っていたのだが先日楽器店でこの人の著作にか4る「写真指母による問答式ギクー独習」なる教本を見て證いた。
その中に牧められた練習課題曲は殆ど軽音楽と流行歌であり、音名と階名の説明まで混同した代物なのである。ーーーもっとも日本以外には、この区別をしない国もあるが・・・・

その曲目は、曰く「片瀬波」曰く「ジャニー・ギター」日く「君恋し」等々であり、これらに混ってベートーベン、バダルチェフスカ、フォスター、カルカッシまでゴック混ぜに牧めてあるのは一酒傑作ではないか。
その上序文に於て「これは私が実際教室で教えている通りに密かれたものだ」と云う意味のことを述ぺている。
全くおどろきである。

この人を、頭が悪いとか、不勉強だとか、感覚がどうだとかそんな失敬なrノクツを言う気は毛頭ない。
むしら随分と悧巧なのだと思う。 だからこれからギクーをはじめようとする人の弱点盲点をついた、このような著書をわざと物したのであろう。 何故ならよく売れるからである。
この人の芸術に対する考え方が何処まで真面目なのか、私には見当がつかない。
真面目、不真面目と云う言葉が不適当だとしても、少くとも音楽家、芸術家と言うにはいさ4か悧巧過ぎるようである。
軽音楽・流行歌を否定はしない。
立派に存在価値もあろう。
従ってその道の人はそれなりに存在価値があると思う、だが間違ってはいけない。
ペンキ屋と画伯は全く別の存在である。
劇伴屋(ラジオ・映画などで劇の伴奏をする人)とクラジック演奏家も似て否なるものである。
流行歌とクラシッグ音楽の本質的相巽点は今更喋々するまでもなかろう。
むろんどちらが上等だなどと区別をつけるものでもない何でもやれるのが偉いのだと信じている人もあろうが、それでは大学の教授は一番偉くない人で、小学校の先生は一番偉いことになりそうである。

ことわっておくが、本論として私は何も横尾氏を一バめる気はない。
この人がクラジック音楽と流行歌の一一道を歩こうが歩くまいがそんなことは勝手である。
どちらか一方が内職だと言われ4ばそれも結構。
他人の生活にカンジョウする権利など私にはないからである。
従って、若しこの人が流行歌は内職だと言うなら、せめて私逹に知らないペン・ネームでも使っておやりになればそのま4すんでしまうだろう。
そこまで他人の茄気を気に病んではこの世の中をとても生きて行けない。
だがこう功ましく本名を出されたからには、最早やこの人をクラジック音楽界の人だと言うことは出来ない。
だからクラシック・ギクーの雑誌に今日迄お害きになった記事は、どうも読者にとって信頼性が乏しいことになる。
が、それも横尾氏の費任ではない。
この執筵者に原稲を依頼した「ギクーの友」の編集部こそ、読者に対してその不明を詫びるべきである。
しかもこの得体の知れない人に田かした記事は、私などが何時も古いているような下らぬ埋草記事と違い、より大切でよりアカデミックであるべきはずの、読者にとって直接勉強に影聾するものである。

第五号における「演奏の手引」第十号に於ける「新作紹介」共にこの雑誌の主題目ではないか。
ギクー界にまともな原稿の害ける人は少ないかもしれない。
それは何も日本に限ったことではなく、外国のギクー専門誌を見てもニュース以外は殆ど読む必要の無いふざけたものである。

しかしだからと言って、このような内股廿薬(いさ4かお下劣ですが)の人に害かせてよいはずのものではない。
敢て無口任な記事を発表するくらいなら滅頁をするがいい。
そう言いだせば一人も執箪者がいないと言うなら廃刊するがいい。
せめて害毒を流さないだげでも幸いである6 それ程公刊誌の記事には古任を伴う水のと私は思う。

兵面目な読者は増頁や値下げよりも、先ず第一に信頼出来る記亭を希招するだろう。
読者をおろそかに思ってはならない。
まだこの他にも別の人が書いたもので怪し気な記事が沢山見受けられる。
或る者は自己宜伝に終始し、或る者ぱ公刊誌上を拝借して先生や先翡同僚に挨拶を申し上げるなど、金百円也の読者には全く以て迷惑なことである。
他人の怪し気な自己宜伝や御挨拶を読む者に板垣退助をうやうやしく奉つる読者は気の品であろう。
筆者も編集者も、従来のギクー同人雑誌と混同しては困る。おくまで宙店に並べて売れる公刊誌ではないか。
個々人の演奏や作品が批判され、はては批評家まで裁かれる現在記事や雑誌そのものが無批判に放四されてよいはずはないだろう。
無料のパソフレットならいざしらず、有料である以上、例え文幸が下手で内容が多少の疑問を残すものであったにせよ、真剣に真面目な態度で田かれた記平を掲載すべきである。
神ならぬ身の、全き文章など誰にだって害けるはずはない。だが日頃軽音楽・流行歌・プラメンコと一線を画する「ギターの友」ともあろう雑誌が、異物を混入して平然たるは凡そ解せない話しである。

現在の執箪者が今後どう立場を変えるかは、編集者はおろか本人にさえわからぬ。
かく言う私自身だってどんなことで流し芸人にならぬとも限らぬ。
だから執築者の将来までもどうこうしろとは言わない。

横尾氏の場合は、前述の序文の内容にある如く、平素からそう云った教授をやり、従ってそう云う傾向を充分持っていたであろうことは当然である。
流行歌の先生が溢いた「演奏の手引」を読んでクラジッグ音楽の勉強をしていた読者があるとしたら、さぞ御上達あそばされたことであろう。
腹が立つではないか。それもこれも編集部のミスであることは言うまでもない。

平素私に建設的窓見を述べよとおっしゃるお歴々が随分いらっしゃるようだが、今回の意見は如何がでしようか。
こんなのを日本では建設的慈見と一耳わないのかしら。

1956-13-ギターの友 P.24-P.26

遠山一行 Kazuyuki Toyama

遠山一行
遠山一行

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とおやま かずゆき
遠山 一行
生誕 1922年7月4日
日本の旗 日本 東京市麻布区笄町(現港区西麻布)
死没 2014年12月10日(92歳没)
出身校 成城学園
東京帝国大学 
    職業 実業家、音楽評論家
遠山 一行(とおやま かずゆき、1922年(大正11年)7月4日 - 2014年(平成26年)12月10日)は、日本の音楽評論家・実業家。日興證券会長を務めた遠山元一の長男。
略歴
遠山元一の長男として東京市麻布区笄町(現在の港区西麻布)に生まれ育つ。クリスチャンの家庭であり、一行自身もプロテスタントの信仰で育った。
1929年(昭和4年)、成城学園小学校[1]に入学。
同級に加藤一郎がいた。
1933年(昭和8年)、澤柳政太郎没後の学園経営をめぐるトラブル、いわゆる成城事件(成城騒動)により小学6年時に自主退学し、第2学期から麻布区立南山小学校に転校。
1935年(昭和10年)、府立高等学校尋常科に入学。
第1学年2学期からピアノを朴啓成(後の属啓成)に師事。
1939年(昭和14年)、府立高等学校文科乙類に進学。
酒井悌(やすし)にチェロと和声学を学ぶ。
1940年(昭和15年)から成城学園の合唱団に加わり、ジョゼフ・ローゼンストックの指揮のもとにハイドンのオラトリオ『四季』、モーツァルト『レクイエム』、バッハ『マタイ受難曲』などを演奏。
1942年(昭和17年)、東京帝国大学文学部美学美術史学科に進み、属啓成のもとで一時中断していたピアノのレッスンを再開。
1943年(昭和18年)12月、第1回学徒出陣により東部第6部隊に編入され、戦時中は1945年(昭和20年)7月から甲府の連隊で暗号教育の教官を務めるなど、同年9月に復員するまで内地で軍隊生活を送る(この間、1944年9月、入隊中に帝大美学科を卒業)。
1946年(昭和21年)4月、東京大学大学院に進み、音楽美学を専攻。
同年、『音楽する心』が『音楽之友』誌の7・8月合併号に掲載されたところ野村光一に注目され、野村の勧めで10月から毎日新聞に音楽時評を執筆。
1948年4月、慶應義塾高等学校講師となり、西洋音楽史を担当(1949年3月まで)。
当時の受持ちのクラスに林光がいた。
同年9月、齋藤秀雄たちの発議により子供のための音楽教室が開かれたことに伴い、同教室で音楽理論と音楽史を講じる(1951年夏まで)。
同年、遠山偕成会長に就任。1949年から1950年まで日興證券監査役を務める。
この間、1949年(昭和24年)4月にフェリス女学院短期大学音楽部助教授となる(1957年3月まで)。
同年5月から東京藝術大学音楽学部講師を兼任。
1951年(昭和26年)に渡仏し、聴講生としてパリ音楽院とパリ大学に入学。
前者ではジャック・シャイエ(英語版)のもとで、後者ではノルベール・デュフルク(英語版)のもとで音楽史を学ぶ。
1957年に帰国。
1959年から桐朋学園短期大学教授( - 1974年)。
この間、1960年12月まで讀賣新聞で音楽時評を担当。
1962年(昭和37年)、遠山音楽財団を設立し理事長に就任、同時に付属図書館を東京都港区に開設、1987年に「日本近代音楽館」に改称。
近現代日本の作曲家の自筆譜面10万点をはじめ、書簡、原稿、プログラム、録音資料など、資料は全50万点を所蔵していた。
2010年3月自身の高齢と財政事情により閉館され、資料は明治学院大学に寄贈された。
1962年(昭和37年)、妻子と共に再渡仏。
翌年5月に、母が脳腫瘍で歩行困難となったため帰国。
1967年、江藤淳、高階秀爾と『季刊藝術』(-1979年)を創刊(古山高麗雄が編集長、50号発行)。
1976年『ショパン』で第18回毎日芸術賞受賞。1979年、フランス芸術文化勲章オフィシエ章を受ける。
1983年(昭和58年)、民間人として初めて東京文化会館館長となる。
1985年、紫綬褒章および中島健蔵音楽賞を受ける。
1987年、京都音楽賞受賞。1991年、東京芸術劇場館長を兼務。
日本音楽コンクール委員長などを歴任。1993年、勲三等旭日中綬章受章。
1995年から1996年まで桐朋学園大学の学長を務める。
1998年、文化功労者に選ばれる。2010年に明治学院大より名誉博士号を授与された。
その他の著書に『私の音楽手帳』『いまの音むかしの音』(講談社)や『遠山一行著作集』全6巻(新潮社)などがある。
季刊芸術出版社長、東京音楽ペンクラブ会長、日本近代音楽財団理事長、遠山偕成の代表取締役相談役を務めた。
2014年12月10日、脳梗塞のため死去。92歳没。

濱田滋郎 Jiro Hamada

濱田滋郎
濱田滋郎

1935年 - 2021年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

濱田 滋郎(はまだ じろう、1935年 - 2021年3月21日)は、日本の音楽評論家、スペイン文化研究家。
日本フラメンコ協会会長、スペイン音楽こだまの会主宰。
父親は童話作家[*泣いた赤鬼]の浜田広介である。東京都出身。
経歴
1935年、東京都大田区田園調布に5人兄弟姉妹の次男として生まれる(弟の濱田三彦はギタリスト)。
日比谷高校を健康上の理由により中退。その後、独学でスペイン語、フランス語などの語学とギターを習得する。
1953年ごろよりスペインやラテン・アメリカの文学・音楽の研究を志す。
1960年ごろより翻訳、雑誌への寄稿、レコード解説などの仕事につく。
1978年より東京芸術大学、桐朋学園大学、東京外国語大学、東京大学などで講師を務める。
1984年、著書「フラメンコの歴史」(晶文社)が第3回蘆原英了賞を受賞。
1985年より「スペイン音楽こだまの会」主宰。
1988年、キューバのハバナで開催された国際ギター・コンクールおよびフェスティバルに審査員・講演者として招待される。
1990年より「一般社団法人 日本フラメンコ協会」会長。
2021年3月21日、神奈川県川崎市の自宅で死去。86歳没。

[主要著書]: 『濱田滋郎の本 ギターとスペイン音楽への道』(現代ギター社) 『フラメンコの歴史』/『エル・フォルクローレ』(晶文社)
『スペイン音楽のたのしみ』(音楽之友社)
『約束の地、アンダルシア』/『南の音詩人たち』(アルテスパブリッシング)など。
[訳書]:マヌエル・カーノ著『フラメンコ・ギターの歴史』(パセオ)
スビラ著『スペイン音楽』(白水社文庫クセジュ)
『タレガの生涯 - 改訂新版 / エミリオ プジョール 』(現代ギター社)

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濱田滋郎
濱田滋郎

[*出典]:現代ギター May.2021 / 特集 追悼:濱田滋郎 ~ギターとスペイン音楽に捧げた生涯

 『「余人を以ては代え難い」と言うが、濱田滋郎こそが、まさにその言葉に相応しい人であった。
 我が国のギター音楽、フラメンコ、スペイン文芸に携わるすべての者が今、濱田滋郎という主柱・礎石を失ってただ呆 然と立ち竦むのみ。
 その無尽蔵の知識は専門分野に留まらず、多岐にわたり、その穏やかな語り口と茶目っ気溢れる人柄は、人々を魅了し てやまなかった。
 すべての者に愛され、すべてを愛した濱田滋郎……周知のように本誌との関りは長く深い。創刊間もない1967 年6 月号 (第3 号)に初の寄稿『アタウアルパ・ユパンキの人と芸術』が掲載され、以来、54 年間にわたって大いなる拠り所として 歴代の編集者達を支え導いてくださった。

 1994 年4 月号(第347 号)から始まった『濱田滋郎対談』は16 年間、全192 回の連載を数え、3 年間の中断を挟んで(そ の間、『濱田滋郎鑑賞術』を連載)、2013 年4 月号(第590 号)からは『Jiro's Bar』とタイトルを変えて再開、『濱田滋郎対 談/ Jiro's Bar』は常に本誌を代表する名物コーナーであった。
錚々たる面々が顔を揃えた著名ゲストも「濱田先生との対談であれば、ぜひ!」と、いずれも快く出演を引き受けてくださったものだった。

 『Jiro's Bar』も間もなく100 回を迎え、「100 回記念のゲストはどなたにしましょうか?」と楽しみな相談もしていたのだが……図らずも今回の対談が最終回となってしまった。

 逝去の前週に収録した『Jiro's Bar』では、いつもとお変わりなくゲストと談笑されている。
本追悼特集では、最後となる『濱田滋郎対談』の他、対談ゲスト一覧、貴重な濱田氏の編曲作品、そして有縁のギタリスト諸氏から寄せられた追悼の言葉を掲載し、大恩ある先生への弔意を表したい。
また、限られた紙幅ゆえ、追悼文については数名の方のみの掲載となったことをお詫び申し上げたい。

 ……濱田滋郎先生、 本当にありがとうございました。さようなら……』

(月刊『現代ギター』編集長:渡邊弘文、副編集長:安藤政利、前編集長:中里精一)

[*出典]:現代ギター May.2021 / 特集 追悼:濱田滋郎 ~ギターとスペイン音楽に捧げた生涯


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