高橋功
---<前略>---
松j級なプレク トラム音楽で生計を維持するという事は日本では大へんむずかしい。
それにもかかわらず日本で高級なプレク トラム音楽が低い襟準を保っているのは 、少数の然心なアマチュアが酬いられざる努力をつづけているからであろ う。
その人々の中に 、かっては武井守成氏や沢口忠左エ門氏があったが 、武井氏 ,沢口氏が歿 った後、この音楽が今日の水涅りこまで進んで来たのは 、高橋君の仕とんど独力の苫闘が実を結んだのだと言える。
ギターをひく人々の数は相当多いが、その多くが軽音交の11iiで仕事をし、成功しているというのはピアノや ヴァイオリンの場合と同様、生活上やむを得ない事である。
ギタ ーという 、沙奏のむずかしい楽器と取り紐んで、ピアノやヴァイオリン とすくなくとも同等の硲い芸術的境地を開くことは 、よほど深い愛をこの楽器に持つ と共に 、大きな様牲を党悟しなくてはならない。
科橋れはその愛するギタ ー及びプレクトラ ム音楽一般に対して、 ほかにあまり類を見ないほどの熱誠と努力をささげて来たのである。---<中略>--
20世紀日本人名事典 「高橋 功」の解説
昭和期の医師,ギター奏者 日本ギタリスト協会名誉会長。
生年明治40(1907)年6月8日
没年平成15(2003)年10月26日
出生地宮城県仙台市
別名俳号=草児
学歴〔年〕東北帝大法文学部ドイツ文学科〔昭和7年〕卒,京城帝大医学部〔昭和11年〕卒
学位〔年〕医学博士
主な受賞名〔年〕朝日明るい社会賞〔昭和37年〕,日本医師会最高優功賞〔昭和43年〕,ガボン共和国有功章,国際厚生事業功労者〔昭和63年〕
経歴昭和11年東北大附属病院眼科に勤務するが、応召され陸軍軍医に。
復員して22年開業。
33年アフリカ・ガボンのランバレネに渡り、シュバイツァー博士の助手として8年間を過ごし、ハンセン病対策などに従事。
41年帰国後、聖マリアンナ医科大学講師、日本コンタクトレンズ研究所顧問などを務めた。
ギター奏者としても知られ、44年以来フランス国営放送主催のパリ国際ギターコンクール審査員も務めた。
著書に「私の自叙伝」、「生命への畏敬」などシュバイツァー博士に関するもの30余冊の他、「ノーベル賞の人びと」「評伝〈古賀政男〉」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について
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高橋功先生のプロフィール。
明治40年生れ。
博士は赤痢菌の発見者として知られる志賀潔博士の甥にあたり、眼科医であり出身地の、仙台市で眼科医院を開業していた。
東北帝国大学法文学部ドイツ文学科卒 京城帝国大学医学部卒 東北帝大附属病院眼科勤務
応召(軍医として会津若松陸軍病院勤務、第二師団・第二野戦病院庶務主任として南方作戦に従軍)。
1956年シュヴァイツァー病院に寄付金を送ったことから博士との文通が始まり、
1958年12月、渡欧の帰路、同病院に立ち寄った。そこで、博士から「半年間、手伝ってくれないか」と依頼を受け、要請に応じ"共同治療"が始まった。
そして2年程遅れて夫人もアフリカに渡り、ともに現地で奉仕活動を行なった。
夫妻は博士の死後もシュヴァイツァー病院に残り、1966年帰国している。
また、博士はドイツ文学に通じ、芸術に造詣が深く、音楽を愛し、博士自身ギターの名手として知られていたようである。
(「シュヴァイツァー博士とともに」より)
NGO紹介<アフリカ・ガボン支援の会>の照会文には以下のように紹介されております。
ガボンの首都リーブルビルから車で3時間ほどのランバレネには、シュバイツアー博士によって建てられたシュバイツアー病院があります。
日本人医師、高橋功先生はここで、8年間医療活動をされ、その功績は、いまも高く評価されています。
高橋先生によって灯されたガボンと日本の親善の火を消さないためにも、同病院への支援をすることにしました。
らい病棟の担当医師として働いた功績は、今も高く評価されている。WFWPとも交流のある高橋さんによってともされた。
主な著作として以下の著書がある。
著者/シュヴァイツァー 訳編/高橋功
セゴビア・テクニック(ウラジミル・ボブリ 著,高橋功 訳)全音楽譜出版社
ギター音楽への招待 高橋功 音楽之友社
私とギター-喜寿を迎えて 著者名 高橋 功
日本ギタリスト協会の名誉会長でもある。
パリー国際ギターコンクールの審査員を6年務める。
(2003年3月25日 フラメンコ・ギターリスト、ホアン一色)