Itsukushima Perry

Composers who influenced Western music, mandolin and guitar music in the Meiji period明治時代の西洋音楽、マンドリン・ギター音楽に影響を及ぼした作曲家たち

明治時代において、西洋音楽やマンドリン・ギター音楽に影響を与えた日本人作曲家たちには、以下のような人物がいます。

武井守成(たけい もりしげ)
武井守成は、マンドリンとギターの普及に大きく貢献した作曲家であり、1924年から1941年まで「マンドリンとギター研究」という雑誌を発行しました1。彼の活動は、マンドリンとギターの演奏技術やレパートリーの拡充に寄与しました。

山田耕筰(やまだ こうさく)
山田耕筰は、日本のクラシック音楽の先駆者であり、オペラや交響曲など多くの作品を残しました。彼の作品は、西洋音楽の影響を受けつつも、日本独自の音楽文化を融合させたものでした。

田中常彦(たなか つねひこ)
田中常彦は、マンドリンオーケストラの指導者として知られ、数多くの演奏会を開催しました。彼の指導のもと、多くの若い音楽家が育ちました。

菅原明朗(すがはら めいろう)
作曲家: マンドリンとギターのための楽曲を多く作曲し、演奏会でも活躍しました。彼の作品は、日本の音楽シーンに新しい風を吹き込みました。
音楽教育者: 音楽教育にも力を入れ、後進の育成に努めました。

これらの作曲家たちは、明治時代の日本における西洋音楽の受容と発展に大きな影響を与えました。彼らの努力と情熱が、現在の日本の音楽文化の基盤を築いたと言えるでしょう。

大田黒元雄(おおたぐろ もとお)
音楽評論家: 日本初の音楽評論家として知られ、クラシック音楽の普及に尽力しました。彼の評論は多くの音楽愛好家に影響を与えました。
音楽と文学社: 1916年から1919年まで、堀内敬三や野村光一と共に「音楽と文学社」を設立し、同人誌『音楽と文学』を刊行しました。

堀内敬三(ほりうち けいぞう)
洋楽普及の先駆者: 日本放送協会(NHK)でのプロデューサーとして、洋楽の普及に大きく貢献しました。彼の番組制作は、日本における洋楽受容を広げる一助となりました。
多才な活動: 作曲家、作詞家、訳詞家としても活動し、音楽教育にも力を入れました。

野村光一(のむら こういち)
音楽評論家: 大田黒元雄と共に音楽評論を行い、日本のクラシック音楽の普及に貢献しました。彼の評論は、音楽愛好家や演奏家に大きな影響を与えました。
教育者: 音楽教育にも力を入れ、多くの若い音楽家を育てました。




[このページの紹介者 :音楽評論家・作曲家・作詞家・音楽歴史家]    松本 太郎 ・ 大田黒元雄 ・野村光一  ・菅原明朗 ・堀内敬三  ・高橋 功 ・小船幸次郎 ・近藤恒夫

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松本 太郎 Taro Matsumoto

松本 太郎
松本 太郎

松本 太郎 Taro Matsumoto

大正・昭和期の音楽評論家
[生年]:明治24(1891)年4月1日 出生地大阪
[没年]:昭和48(1973)年2月11日 [本名]:小西 誠一
[学歴]:慶応義塾大学理財科〔大正4年〕卒,慶応義塾大学文科〔昭和10年〕卒
[主な受賞]:紫綬褒章〔昭和44年〕,勲四等瑞宝章〔昭和48年〕

[経歴]:勧業銀行勤務後、慶大再入学、西洋美術史・ドイツ文学を学び、大学院で2年間勉学。
大正12年小宮豊隆の勧めでヨーロッパ遊学、14年帰国。美術評論から音楽評論に転向、フランス音楽のプロパガンダに没頭。

この間大正4年武井守成のシンフォニア・マンドリーニ・オルケストラに参加、20数年第2マンドリンを担当。

昭和4年から音楽雑誌に寄稿を続け、月刊「現代ギター」に「にっぽんぎたあ史」を連載、42回で絶筆。

著書に「仏蘭西音楽襍紀」「フランス音楽を語る」「今日のフランス音楽」などがある。

[出典]:日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について

大田黒元雄 Motoo Ohtaguro

大田黒元雄
大田黒元雄

大田黒元雄 Motoo Ohtaguro

大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - 1979年1月23日) は、日本の音楽評論家である。日本における音楽評論の草分けとして知られる。
人物・来歴
裕福な環境
1893年(明治26年)1月11日、東京府(現在の東京都)に生まれる。
大田黒の父は、日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所(現東芝)の経営を再建し、財をなした大田黒重五郎(-じゅうごろう)である。
父・重五郎は、江戸時代には徳川幕府の御家人で、小牧(こまき)が本姓であった。
元熊本藩の大田黒惟信(-これのぶ、砲術家)の次女・らく(1925年没)と結婚し、以後大田黒姓を名乗ることとなった。
元雄は長男で一人っ子、幼時について、父・重五郎は、「元雄は、幼い時から一度だって、頭なんか叩かないで済んで来た。
私は元雄をつかまえて、「馬鹿」だなどと言って子供をいぢめたことを知らない。
これも妻が良い女であったから、私が頭を擲(なぐ)らずに済むやうな子供をつくりあげて呉(く)れたのかも知れない。
現在でも一時(ひとこと)だって争ひの種子(たね)もない。
もう一つ幸(さいはひ)なことは、元雄夫婦の間にも争ひがないことである」と話している。
元雄は、父重五郎の築き上げた裕福な環境で生涯を過ごし、黎明期の写真史に『写真芸術』同人として、福原有信や福原路草、石田喜一郎らと自由で重要な活動を遺し、また生涯にわたって自由な立場から音楽のみならず様々なジャンルで執筆を続けた。
若い頃の渡欧で、実際に作曲家の演奏を聴いた体験も、希有なものであったし、楽譜や資料、欧州の演奏会の情報や芸術の動向に関する最新の情報を日本に持ち込むことができたのも、この財力によるところが大きい。
ガブリエル・フォーレの演奏を彼は聴いている。

しかし、それのみならず、音楽に関する専門的な教育を十分に受けていない一青年が、大正時代に、既に活躍ができたというのは、元雄のセンスと才幹によるものであろう[要出典]。
また、彼は自分が得た情報を惜しげもなく提供し、多くの音楽愛好家に親しまれた啓蒙家としての側面もあった。

大森山王(現在の大田区山王)と杉並区東荻町(現在の同区荻窪)の2か所の東京の邸宅のほかに、静岡県沼津市や神奈川県小田原市に別邸があった。
病弱な母の転地療養先で育てられた元雄は、旧制・神奈川県立第二中学校(現神奈川県立小田原高等学校)卒業後、旧制高等学校には進まず、東京音楽学校の教師ハンカ・シェルデルップ・ペツォルトにピアノを師事した。
1912年(明治45年)に渡英し、ロンドン大学で約2年間にわたって経済学を修める傍ら、音楽会や劇場に通い詰めて本場の芸術に親しんだ。
1914年(大正3年)7月に一時帰国したが、第一次世界大戦の勃発で再び渡英できなくなったため日本にとどまる。


[音楽と文学社のころ]
1915年(大正4年)2月、『現代英国劇作家』を洛陽堂から上梓、同年5月、松本合資会社改メ合資会社山野楽器店(現在の山野楽器)店主の山野政太郎から「作曲家の評伝のようなもの」[2]を書かないかと勧められ、ロンドン時代に集めた資料や情報をもとに『バッハよりシェーンベルヒ』を刊行した。
同書で、日本では知られていなかった多くの作曲家を紹介した。
Mozart(モーツァルト)⇒「モツアルト」、Rossini(ロッシーニ)⇒「ロシニ」、Saint-Saëns(サン=サーンス)⇒「サン、サーン」、Fauré(フォーレ)⇒「フヲーレー」、Debussy(ドビュッシー)⇒「デビユッシイ」、Rachmaninoff(ラフマニノフ)⇒「ラハマニノフ」等、作曲家の発音表記は現在一般的ではない表記が目につくが、現在と同様の表記の方が多い。

作曲家を紹介した本は量と質でそれまでの書物の群を抜き、発行部数は少ないものの大田黒の名を一躍高からしめた。
同書一冊の価格が1円50銭、同書の印税は40円であった。

「ドビュッシーを日本で初めて紹介した」とされることが多いが、同書刊行以前に、『星の王子様』の邦訳で知られる内藤濯が、1908年(明治41年)に「印象主義の学才」というエッセイを雑誌『音楽界』(1908年9月号、楽会社)に、永井荷風が「西洋音楽最近の傾向」を『早稲田文学』(1908年10月)で紹介している[3]。大田黒は「デビュッシィ」と表記していたが、永井荷風は1908年の時点で既に「ドビュツシー」と表記している。

ただし、演奏会でまとまった作品を演奏したのは大田黒らであるとは言えるであろうし[要出典]、数度にわたって評伝やドビュッシーの音楽論集を刊行しており、日本で最初にドビュッシーの評伝らしい評伝を書いた最初の人物であるとは言えるであろう[要出典]。

「日本で最初の音楽評論家である」といわれているが、これも客観的にそう断じるのは容易ではない[要出典]。
吉田秀和の随筆集『響きと鏡』の中には、吉田が園遊会のような席で、大田黒のことを英語で「日本で最初の音楽批評家」と紹介している場面が出てくる[4]。

1916年(大正5年)から1919年(大正8年)まで、堀内敬三や小林愛雄、野村光一と共に進歩的な同人誌『音楽と文学』を刊行、「音楽と文学社」を設立し、同誌の中心人物として活躍した。
月1回自邸で音楽の集いを開き、自らピアノを演奏し、スクリャービンやドビュッシーなど当時最先端だった近代音楽の紹介普及に尽力。
この間、1918年(大正7年)に声楽家の広田ちづえと結婚している。同年来日したセルゲイ・プロコフィエフを厚く持てなした。

1921年(大正10年)11月から二度目の外遊に出発するまでに、少なくとも18冊の著書と2冊の訳書を上梓している。
1923年(大正12年)3月に日本へ帰国。潤沢な資産を背景に、長谷川巳之吉の第一書房を資金援助し、同社の『近代劇全集』が大赤字となった際には、当時の金で7万円という大金を出資したこともある。
1940年(昭和15年)版の『日本紳士録』によると、当時大田黒が収めた所得税は1万4,086円であり、これは1996年(平成8年)の貨幣価値で約3,000万円に相当する。


[昭和に入って]
1924年(大正13年)から1925年(大正14年)まで、および1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)まで、欧米の各地を周遊している。
評論活動の傍ら、父親の仕事の関係で、株式会社東京高級鋳物の取締役、株式会社東邦重工業(現在の東邦化学工業)の常任監査役、株式会社電業社(現在の電業社機械製作所)監査役、株式会社電業機製作所の監査役を兼務したが、教職などには一切就くことなく芸術的な自由人としての生活を貫いた。

第二次世界大戦後は、NHKのラジオ番組『話の泉』(放送期間 1946年12月3日 - 1964年3月31日)のレギュラー出演者となり、ダンディな語り口で茶の間の人気を博した。生涯の著書数は、再出版を除いて76冊、訳書は32冊にのぼる。
趣味は野球や相撲や推理小説など幅広く、著書の内容も音楽評論以外に『西洋の汽車』『野球春秋』『ネクタイ談義』『英米探偵小説案内』など多岐にわたり、食道楽としても知られ、吉田秀和から「大正リベラリズムが生んだひとつの典型。
今でもあの人が私の唯一の先輩」と評された。

1964年(昭和39年)、紫綬褒章を受章、1967年(昭和42年)、勲三等瑞宝章を受勲した。1977年(昭和52年)、文化功労者に選ばれた際、「自分の道楽のためにやったことが表彰されるようになった」と語った。
1979年(昭和54年)1月23日、死去する。満86歳没。逝去にあたり、銀杯三号を受け、従四位に叙された。

1933年(昭和8年)から生涯を過ごした、2,700坪に及ぶ東京都杉並区荻窪の自邸跡地は、その大部分が「大田黒公園」となった。1933年(昭和8年)に建てられた仕事場が「記念館」として保存されている。

[*出典]: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・大田黒元雄『音楽生活二十年』、大空社、1996年 ISBN 4872365003 ・日本近代音楽館『大田黒元雄とその仲間たち 雑誌「音楽と文学」(1916-1919)回想・プロフィール・記事一覧』、2002年

野村光一 Koichi Nomura

野村光一
野村光一

野村光一 Koichi Nomura

野村 光一(のむら こういち) 1895年9月23日 - 1988年5月22日
日本の音楽評論家。
経歴
大阪府生まれ。京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)卒業。
1920年、慶應義塾大学文学部哲学科卒業。小宮豊隆に師事[1]。
1921年に渡英。ロンドンの王立音楽アカデミーでピアノを学ぶ。このころ、ブゾーニやラフマニノフの演奏に接する。さらにドイツに渡り、1923年に帰国した後、新聞や雑誌で評論活動をおこなう。
1932年に堀内敬三らと「音楽コンクール」(現「日本音楽コンクール」)の創設に関わり、このコンクールの発足時から審査委員長と理事を務める。(1988年より「野村賞」新設)
1944年、毎日新聞社に入社。
1963年、日本ショパン協会会長に就任(1981年まで)
1967年、紫綬褒章受章。
1968年、勲四等旭日小綬章受章。
1984年、モービル音楽賞受章。
その他
娘の輝子は東京藝術大学ピアノ科を卒業し、谷崎潤一郎の娘にピアノを教えていたが、安田善次郎の曾孫で建築設計士の安田紫気郎と結婚した。
遠縁に佐々木勇之助(佐々木の妻の兄の養子が光一の父)[2]

主要著作
『樂壇隨想』(ビクター出版社、1931年)
『レコード音樂讀本』(中央公論社、1934年)
『名曲に聴く』上・下(創元社、1940年)
『批評から見た音樂二十年』(音樂評論社、1948年) 山根銀二と共著
『ピアノ音楽史』(音楽之友社、1951年)
『レコードに聴くピアノ音楽』(音楽之友社、1953年)
『音楽の窓』(音楽之友社、1958年)
『ピアニスト』(音楽之友社、1973年)
『ピアノ回想記 : ピアノに憑かれて七〇年』(音楽出版社、1975年)
『野村光一音楽随想 : ワーグナーは敗けだ』(音楽之友社、1985年)



[出典]: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポータル クラシック音楽

菅原明朗 Meiro Sugahara

菅原明朗
菅原明朗

菅原 明朗(すがはら めいろう、Méireaux Sœgaharat[1]
1897年(明治30年)3月21日 - 1988年(昭和63年)4月2日
日本の作曲家、音楽の教育者、指導者、啓蒙家。本名は吉治郎。

経歴
兵庫県明石市大蔵町生まれ。
菅原道真の菅原氏の末流。
プロテスタントの幼稚園に通ったことから、明石第二尋常小学校(現在の明石市立人丸小学校)通学中の1908年(11歳)、洗礼を受ける(後年、カトリックに改宗)。
1910年(13歳)京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学。
その時代、陸軍軍楽隊長小畠賢八郎にホルンとソルフェージュを習った。

1914年(17歳)上京し、1918年(21歳)まで川端画学校洋画科で藤島武二に学んだ。
画学校に通うかたわら作曲家の大沼哲に師事し、1915年(18歳)より作品を発表。
また、大田黒元雄・堀内敬三等の「新音楽グループ」に入り、雑誌「音楽と文学」同人となった。

1917年(20歳)、武井守成主宰のマンドリン楽団、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」に入団し、また、「軍艦行進曲」で有名な瀬戸口藤吉に対位法を学んだ。
1924年(27歳)初夏より1年あまり同志社大学マンドリン倶楽部の指揮をとり、
1926年(29歳)、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」の指揮者となった。
この頃から、音楽作品が認められるようになった。当時のマンドリンオーケストラの編成は巨大化する傾向にあり、菅原の代表作「内燃機関」もフルート、バスクラリネット、トロンボーン、ピアノ、ハーモニウム、打楽器を加えたものであった。

1932年に「雑感」という文章を発表し、本格的な管弦楽の普及により、その代用としての巨大化したマンドリンオーケストラの役割は終わったとして、新しいマンドリンオーケストラの在り方を模索するよう主張し、マンドリン音楽界から去った。<p/>

その一方で1930年(33歳)、私立「帝国音楽学校」の作曲科主任教授となり、また、箕作秋吉、清瀬保二、橋本国彦、松平頼則ら16人と「新興作曲家連盟」を、さらに、1936年、門下の深井史郎らと「楽団創生」を結成した。
1938年、歌劇「葛飾情話」の上演後、そのときのアルト歌手、永井智子と結婚。[要検証 – ノート]

ドイツ系が主流だった当時の日本の洋楽界に、彼はフランス流の新風を吹き込んだ。

1930年代中ごろからはイタリア音楽に接近し、チマローザやピツェッティに傾倒した。
指揮活動は、自作の指揮ばかりでなく、たとえば1942年には、アルチュール・オネゲルのオラトリオ「ダヴィデ王」を松竹交響楽団により日本初演している。
戦後はグレゴリオ聖歌に影響を受けた作品が多く、またキリスト教に関連する作品も多数残した。

1963年に神戸で活動する関西マンドリン合奏団と出会ってマンドリン界に復帰し、最晩年まで関西マンドリン合奏団のために多くの作曲や編曲を行った。

1967年の最初のイタリア旅行以降、彼はたびたびイタリアに長期滞在し、ピツェッティと親交を深めた。
長寿の最期まで現役で、ハーモニカ奏者の崎元譲やアコーディオン奏者の御喜美江など若い演奏者のために作品を提供した。
1981年4月、芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展5 菅原明朗」が開催された。
1988年4月2日、「ヨハネの黙示録」に基づいたカンタータ作曲の途上、亡くなった。(享年91歳)


菅原明朗
菅原明朗

菅原明朗の作品目録を一見して目につくのは、マンドリン・プレクトラム合奏曲の多さである。
実際に、菅原は、日本の音楽界において常設の管弦楽団が存在していなかった時期から唯一定期的に活動を行っていた合奏団であるシンフォニア・マンドリニ・オルケストラ(1923[大正12]年にオルケストラ・シンフォニカ・タケヰと名称を変更、以下本稿ではこの名称に統一)に加わり、活躍していた。
しかし、武井守成男爵(1890-1949[明治23-昭和24]年)を中心に結成されたオルケストラ・シンフォニカ・タケヰ自体、明治以後の日本の音楽史の中でその存在が語られてきたに過ぎず、アマチュアの団体であったことも災いして、まとまった研究はほとんどなされていない。(4)
他方、菅原明朗は、その初期の作品において近代フランス音楽の影響を強く受けた最初の日本人作曲家であり、大正から昭和初期にかけての日本の音楽界へそれを紹介したことでも知られる。(5)
この時期、菅原はオルケストラ・シンフォニカ・タケヰに加わっており、1932(昭和7 )年7 月に正会員を退くまでの15年もの間、オルケストラ・シンフォニカ・タケヰにおける活動は、彼の音楽活動の重要な部分を占めていた。
本稿では、上述の『マエストロの肖像―菅原明朗評論集―』の他、武井守成が発行していた雑誌『マンドリンとギター』およびその後続雑誌である『マンドリンギター研究』を基礎資料として用いて、オルケストラ・シンフォニカ・タケヰにおける菅原の活動を辿り、大正から昭和にかけての初期の日本人作曲家がどのように近代フランス音楽を受容し、自らの創作に生かしていったのかを考察していきたい。

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1925年にラジオ放送が開始され、1926年に新交響楽団(現在のNHK 交響楽団)が設立されるなど、昭和初期には人々が管弦楽の演奏を聴く機会は増加した。
吹奏楽と同様に、管弦楽団の代替としてのマンドリン・オーケストラの役割は、過去のものになったのである。
しかしながら、大正期から昭和初期という西洋音楽が大衆化されていった時代に、アマチュアと専門家、クラシックとセミ・クラシックという様々な層があり、各々のせめぎあいの中で、西洋音楽が受容されていった。
オルケストラ・シンフォニカ・タケヰの活動からはそれらの諸相の一面が思い浮かぶだろう。

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  • [出典]
  • 初期の日本人作曲家における近代フランス音楽受容――菅原明朗とオルケストラ・シンフォニカ・タケヰをめぐって ――佐 野 仁 美
  • 2024/03 学術論文 「フランス派作曲家菅原明朗と宮城道雄の協働―《千鳥の曲》をめぐって―」 『関西楽理研究』 関西楽理研究会 (40):33-46 (単著)
  • 2015/02 学術論文 「初期のフランス派作曲家菅明朗と永井荷風―2つの歌曲《さすらひ》《口ずさみ》をめぐって―」 『京都橘大学研究紀要』 41:117-131 (単著)
  • 2014/02 学術論文 「昭和初期の日本人作曲家と新日本音楽―菅原明朗と宮城道雄―」 『京都橘大学研究紀要』 40:63-84 (単著)
  • 2013/01 学術論文 「初期の日本人作曲家における近代フランス音楽受容―菅原明朗とオルケストラ・シンフォニカ・タケヰをめぐって―」 『京都橘大学研究紀要』 39:208-232 (単著)

堀内敬三 Keizo Horiuchi

堀内敬三
堀内敬三 1897年(明治30年) - 1983年(昭和58年)

堀内 敬三(ほりうち けいぞう)
1897年(明治30年)12月6日 - 1983年(昭和58年)10月12日[1])
日本の作曲家、作詞家、訳詞家、音楽評論家。「あやしいぞ」をもじった安谷 鎮雄という筆名もある。冬の星座を作詞したことで著名。

[人物・来歴]
「浅田飴」オーナーの堀内伊太郎の三男として東京市神田区(現:東京都千代田区)鍛冶町で生まれる(ただし浅田飴本舗の相続権は34歳、日本大学芸術学部講師になった年に放棄)。

1915年、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
小学校と中学校を通じて、言文一致唱歌の提唱者田村虎蔵に音楽を習う。
同校在学中、1912年頃から親類の東京帝大生二見孝平の音楽的影響を受け、大沼哲にピアノや和声学を学ぶ。

第二高等学校(現:東北大学)の受験に失敗して浪人生活を送っていたとき、1916年、小林愛雄、大田黒元雄、野村光一、菅原明朗たちと共に岩波書店から日本最初の音楽批評誌『音楽と文学』を創刊。

当時から音楽の道に進むことを志望していたが、音楽を学ぶことにつき生家の賛同が得られず、
1917年に渡米し、ミシガン大学にて、大好きな蒸気機関車に縁のある自動車工学を学ぶため機械工学を専攻。
併せて同校音楽学部専科でアール・ヴィンセント・ムーア(オランダ語版)に作曲を、アルバート・オーガスタス・スタンリー(ロシア語版)に音楽史を師事し、合唱団に参加[2][3]。
1918年冬にはニューヨークで山田耕筰に面会。

1921年、マサチューセッツ工科大学大学院修士課程に入学し、応用力学を専攻。
1922年6月から9月にかけてヨーロッパを旅し、ロンドン、ベルリン、パリ、ベルギー、オランダ、ドイツ、イタリアを巡る。
留学中は巡査の月給が70ドルの時代に月額200ドルの仕送りを受け、週末になると居住地のボストンからニューヨークまで寝台車で通い、演奏会や芝居を楽しんだ[4]。

1923年、マサチューセッツ工科大学修士課程を修了し、機械工学の修士号を取得し、神戸に帰港。帰国後は関東大震災の被害により横浜の倉庫で荷物が焼失し、多くの実験データを失い、神田の実家は全焼する。
これにより再び渡米して研究者になる夢は断念せざるを得なくなってしまった[5]。
父親が合弁会社として設立した自動車修理工場の代表社員ともなったが、音楽に熱中し、翻訳、作曲、作詞、放送、音楽教育関係の仕事を行う。

1926年、野村光一の依頼で作詞作曲した「若き血」(慶應義塾大学応援歌)のヒットにより音楽の道に進むことを父に許され、同年からNHK洋楽主任となる。
1935年から松竹蒲田撮影所音楽部長ならびに日本大学教授を兼任。

1936年、『月刊楽譜』の発行名義人となる。
1938年2月、『音楽世界』主幹。
同年9月28日、日大教授辞任。同年10月31日、松竹大船撮影所音楽部長辞任。

1941年11月、『月刊楽譜』『音楽世界』『音楽倶楽部』を合併して『音楽之友』を創刊、日本音楽雑誌株式会社(音楽之友社の前身)を設立、取締役社長に就任。 戦時中は軍国主義的な風潮に迎合し、日本に居るユダヤ系指揮者や演奏者には優秀な技術を持つ人々がある。
しかし、たとへ其の人々が神の如き手腕を持つてゐたにせよ、其の人々を尊重する事が今日の国民思想に悪い影響を及ぼすならば考へ直さなくてはならぬ。国家あつての芸術である。
と発言したこともある。
太平洋戦争中に空襲で焼失した浅田飴本舗(神田駅前)の敷地内にバラックを建て、音楽之友社を存続させた。
ただし、戦後まもなく編集者としては引退し、1946年には取締役社長も目黒三策に引き継ぎ、自らは会長職となった。

1947年、日本音楽著作家組合(現:全日本音楽著作家協会)の初代会長に就いた。

1949年放送開始のNHKラジオ「音楽の泉」の司会進行役・解説者(同番組では、アナウンサーが「おはなしは、堀内敬三さんです(でした)。」と紹介する)を1959年まで務め、広く親しまれる。

自他共に認める鉄道ファンでもあり、「話の泉」での共演者の徳川夢声からは「彼(堀内)のモノ知りは非常に本格的なのである」と評され、音楽・鉄道・電気・化学・歴史・地理・国文学・和歌俳諧・歌舞伎・落語などにわたる博識ぶりを讃えられた[9]。
また、外国で入手した楽譜と語学力とを活かして優れた訳詞を行い、日本の翻訳歌曲を芸術の域に高めた。
これらの訳詞は永井郁子の日本語による独唱会(初回は1925年11月1日、帝国ホテル演芸場。同様の会が3年にわたって開かれた)向けに短期に集中して行われたと思われる。

1955年、日本モーツァルト協会の初代会長に就任[10]。

1958年10月から翌年7月までの約9ヶ月間、東洋音楽短期大学(現在の東京音楽大学)の第二代学長に就任した。

1959年、紫綬褒章受章。

妹の淑子は齋藤茂吉の義弟の齋藤西洋(精神科医、東京都立梅ヶ丘病院院長)と結婚した。

1983年10月12日、肺炎のため死去。享年85。11月5日には青山葬儀所にて追悼式が行われた。



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高橋 功 Isao Takahashi

高橋 功
高橋 功

高橋功

---<前略>--- 松j級なプレク トラム音楽で生計を維持するという事は日本では大へんむずかしい。
それにもかかわらず日本で高級なプレク トラム音楽が低い襟準を保っているのは 、少数の然心なアマチュアが酬いられざる努力をつづけているからであろ う。
その人々の中に 、かっては武井守成氏や沢口忠左エ門氏があったが 、武井氏 ,沢口氏が歿 った後、この音楽が今日の水涅りこまで進んで来たのは 、高橋君の仕とんど独力の苫闘が実を結んだのだと言える。
ギターをひく人々の数は相当多いが、その多くが軽音交の11iiで仕事をし、成功しているというのはピアノや ヴァイオリンの場合と同様、生活上やむを得ない事である。
ギタ ーという 、沙奏のむずかしい楽器と取り紐んで、ピアノやヴァイオリン とすくなくとも同等の硲い芸術的境地を開くことは 、よほど深い愛をこの楽器に持つ と共に 、大きな様牲を党悟しなくてはならない。
科橋れはその愛するギタ ー及びプレクトラ ム音楽一般に対して、 ほかにあまり類を見ないほどの熱誠と努力をささげて来たのである。---<中略>--



20世紀日本人名事典 「高橋 功」の解説
昭和期の医師,ギター奏者 日本ギタリスト協会名誉会長。
生年明治40(1907)年6月8日
没年平成15(2003)年10月26日
出生地宮城県仙台市
別名俳号=草児
学歴〔年〕東北帝大法文学部ドイツ文学科〔昭和7年〕卒,京城帝大医学部〔昭和11年〕卒
学位〔年〕医学博士
主な受賞名〔年〕朝日明るい社会賞〔昭和37年〕,日本医師会最高優功賞〔昭和43年〕,ガボン共和国有功章,国際厚生事業功労者〔昭和63年〕
経歴昭和11年東北大附属病院眼科に勤務するが、応召され陸軍軍医に。
復員して22年開業。
33年アフリカ・ガボンのランバレネに渡り、シュバイツァー博士の助手として8年間を過ごし、ハンセン病対策などに従事。
41年帰国後、聖マリアンナ医科大学講師、日本コンタクトレンズ研究所顧問などを務めた。
ギター奏者としても知られ、44年以来フランス国営放送主催のパリ国際ギターコンクール審査員も務めた。
著書に「私の自叙伝」、「生命への畏敬」などシュバイツァー博士に関するもの30余冊の他、「ノーベル賞の人びと」「評伝〈古賀政男〉」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について

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高橋功先生のプロフィール。
明治40年生れ。
博士は赤痢菌の発見者として知られる志賀潔博士の甥にあたり、眼科医であり出身地の、仙台市で眼科医院を開業していた。
東北帝国大学法文学部ドイツ文学科卒 京城帝国大学医学部卒 東北帝大附属病院眼科勤務 
応召(軍医として会津若松陸軍病院勤務、第二師団・第二野戦病院庶務主任として南方作戦に従軍)。
1956年シュヴァイツァー病院に寄付金を送ったことから博士との文通が始まり、
1958年12月、渡欧の帰路、同病院に立ち寄った。そこで、博士から「半年間、手伝ってくれないか」と依頼を受け、要請に応じ"共同治療"が始まった。
そして2年程遅れて夫人もアフリカに渡り、ともに現地で奉仕活動を行なった。
夫妻は博士の死後もシュヴァイツァー病院に残り、1966年帰国している。
 また、博士はドイツ文学に通じ、芸術に造詣が深く、音楽を愛し、博士自身ギターの名手として知られていたようである。
(「シュヴァイツァー博士とともに」より)
NGO紹介<アフリカ・ガボン支援の会>の照会文には以下のように紹介されております。
 ガボンの首都リーブルビルから車で3時間ほどのランバレネには、シュバイツアー博士によって建てられたシュバイツアー病院があります。
日本人医師、高橋功先生はここで、8年間医療活動をされ、その功績は、いまも高く評価されています。
高橋先生によって灯されたガボンと日本の親善の火を消さないためにも、同病院への支援をすることにしました。
らい病棟の担当医師として働いた功績は、今も高く評価されている。WFWPとも交流のある高橋さんによってともされた。
主な著作として以下の著書がある。
著者/シュヴァイツァー 訳編/高橋功
セゴビア・テクニック(ウラジミル・ボブリ 著,高橋功 訳)全音楽譜出版社
ギター音楽への招待 高橋功 音楽之友社
私とギター-喜寿を迎えて 著者名  高橋 功
日本ギタリスト協会の名誉会長でもある。
パリー国際ギターコンクールの審査員を6年務める。
(2003年3月25日 フラメンコ・ギターリスト、ホアン一色)

小船幸次郎 Kojiro Kobune

小船幸次郎
小船幸次郎

1907年 横浜に生まれる。
作曲と指揮を独学し、後30歳近くになり作曲をアレキサンダー・チェレブニン、指揮をヨーゼフ・ローゼンシュトックに学ぶ。
1932年 横浜交響楽団を創立。
1937年 第6回オンガクコンクール、作曲部門で第1位入賞、NHK 交響楽団のコンクール入選。
1939年 サンタ・チェチリア音楽大学四季報完成科へ留学のため派遣される。
~1945年 日本放送交響楽団、松竹交響楽団、大東亜交響楽団、新京交響楽団、ハルピン交響楽団などの指揮者を歴任。
1959年 東京方面在住のギタリストを網羅して「東京ギターアカデミー」を創立。
1965年 全音楽譜出版社より「ギター和声楽」、「ギター編曲の手引き」など出版。
さらに目下ギターによるバッハの無伴奏チェロ組曲全曲を出版準備中。


近藤恒夫 Tsuneo Kondoh

1960年代近藤恒夫
1960年代近藤恒夫

近藤恒夫 Tsuneo Kondoh

  • 生年不詳-没年不詳

作曲家より見たるタルレガ:近藤恒夫

1950-11-No9

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