Itsukushima Perry

The history of the classical guitar scene in Hokkaido北海道のクラシックギター界の歴史

[*転記/*出典]:札幌と音楽/さっぽろ文庫 57/札幌市教育委員会編 (1991年(平成3年)6月28日発行)
[執筆者]:渋谷忠三(渋谷ギター音楽院主宰・北海道ギター協会理事)

道内最古、北大アウロラ

1922年(大正11年) 北海道帝国大学チルコロ・マンドリニスティコ・アウロラの活動開始。(北大文武会音楽部創立(大正13年)より以前)
イアン・コバリスキー(流浪の楽人)ヴァイオリンやマンドリン演奏に刺激され、当時医学生の小河原四郎を中心に「アウロラ・マンドリニ・オルケストラ」を結成したのが始まり。

大正11年:アウロラ主催 札幌学生連合マンドリン大会を開催する。
小樽商業、札幌工業卒業生、小樽中学、札幌北海中学、北大アウロラの5団体に小樽シンフォニアがマンドラ独奏をし、マンドリン音楽隆盛のきっかけを作った。




大正13年:石井春省(はるみ)顧問指揮者[アカシア楽器店主]
昭和8年(1933年)アウロラ引退。九島勝太郎が後を引き継いだ。
昭和16年(1941年)北大文武会が解消、アウロラは報国会文化部洋楽班として戦意昂揚演奏会を実施。マンドリンは同盟国イタリア、ドイツ音楽として認められた。
昭和20年(1945年)12月 アウロラ第1回 演奏会、北大交響楽団と合同(於:北大農学部講堂)
昭和38年(1963年)東京公演:6回/京都公演:2回・・・平成2年(1990年)定期演奏会は67回を超える。

※九島勝太郎「札幌プレクトラム・アンサンブル」(*註:1993年9月26日没)
 「オルケストラ・シンフォニア・タケイ」(武井守成)のメンバーだった。
昭和7年(1932年)に帰札し、同年アウロラマンドリン大演奏会 清原叡(さとし)企画で公会堂で開催される。
(札幌プレクトラム協会として1回限りの開催となった。)

昭和9年(1934年):マンドリン5重奏団を結成。ラジオ放送にしばしば出演する。
後に「札幌プレクトラム・アンサンブル」と命名。
演奏会:昭和13年(1938年)戦時中中断はあるものの、昭和21年(1956年)再会、以来現在まで演奏を継続する。

※昭和20年代(1945年代)後半から多くのマンドリンクラブが誕生。
昭和28年、津田甫(はじめ)指導の月寒高校、翌昭和29年田中稔夫が中心の学芸大(現教育大)。
昭和30年代以降の誕生団体:開成高校、明清高校、山の手高校、藤女子大・短大(フジ・フロイライン)、札幌MC、札幌アカシヤMC、天使女子短大、旭丘高校、エスティディアンティナ・サッポロ、札幌シンフォニカ・マンドリーノなどがある。

昭和40年(1965年)代には、北海道プレクトラム連盟(会長:酒井正忠 *註:1994年8月6日没)、
日本マンドリン連盟北海道支部(会長:九島勝太郎)と組織が強化され、道内全体がまとめられている。
昭和35年(1960年)度から「市民劇場マンドリンコンサート」(企画責任:小林武四郎)は市民に定着し、昭和55年(1980年)度から実施の「ギター・マンドリン音楽祭」では、市民芸術祭賞に、栗原一枝、五十嵐啓喜、秋田倫秀が輝き、同奨励賞に高村純江が受賞して居る。
近年は、マンドリン四重奏等少人数によるグループも誕生、新しい試みが盛んにおこなわれるようになった。

「さっぽろ市民劇場」で指揮する九島勝太郎[昭和45年5月12日 市民会館]

[*註]:管理者追記事項



戦前のギター音楽のようす

さて、ギターに話を移そう。
マンドリンの伴奏楽器だったギターも、独自に活動し始めたのは大正10年頃のこと。
札幌のギター独奏第1号は、西田直道(のちのNHK札幌放送管弦楽団指揮者)、大正14年小河原四郎中心の「オルケストリーナ・マンドリニスティカ・ヲガハラ」の第1回演奏会(豊平館)で演奏されたもので、曲はメルツ「船歌」、武井守成「タレガに捧ぐる曲」。
また、西田は岩見沢でもサルコリ、武井の曲を弾いているがその後の記録はない。

昭和8年驚嘆すべき最先端をいくギターリサイタルが今井記念館(現丸井パークタワー)で開かれた。
北大アウロラの伊福部勲のギター独奏が中心で、弟の伊福部昭と早坂文雄も出てギター三重奏も演奏した。
主な曲目を記そう。
早坂文雄(*1914年生)「ソナタ第2番」「エリック・サティ礼讃」、伊福部昭(*1914年生)「ノクチュルヌ」、伊福部勲(*1912年生)「日本民謡調」、グラナドス「スペイン舞曲」、タンスマン「マズルカ」、マラッツ「セレナータ」、ファリャ「ドビュシー讃歌」、プジョール「ロマンス」、その他タルレガ、アルカス、アルバ、メルツ、武井、大河原義衛の独奏曲、三重奏ではラモー「タンブラン」、ミヨー「ブラジルのソウダード」以上20曲中14曲が初演である。
当時東京でもタンスマン、ファリャ、ミヨー、プジョールなどは全くといってよい程演奏されていなかった時代である。


伊福部勲(右から二人目中段)と札幌ギター連盟のメンバー[昭和10年頃]

さて、伊福部勲はこの演奏会で先輩からにらまれ「予科生のくせに生意気」とアウロラをクビになる。
それが起爆剤となったか伊福部は、北大生を中心に市内の愛好者も集め「札幌ギター連盟」を組織、昭和10年「独奏発表会」を皮切りに「ギター公演会」(昭和11年)、「第3回公開演奏会」(昭和12年)、「招待試演会」及び「近代スペイン音楽の夕べ」(昭和13年)、さらに同年東京から酒井富士夫を招聘
これら一連のプログラムには、サティ「三つのグノシェンヌ」、ファリャ「恋は魔術師から」、「スペイン舞曲No.1」などが含まれる革命的なものであった。
また、演奏会の予告として「タルレガ、フランシスコ祭」と「舞曲と小夜曲の夕」が載っているが実演は定かでない。

世界的なギタリストのアニド女史との文通も全く驚きである。
中央の専門誌「マンドリン、ギター研究」(昭和12年)のアンケートに伊福部は「お互いに教養とイデー(音楽的)の向上に努めたいものです。
とにかくプレクトラム界は現在の如く自己のジャンルを守ることをやめて、まだまだ広範囲に知識を求めるべきでしょう」と述べているように主義主張の強い人間だった。

戦時色が日増しに強くなった昭和15年(1940年)伊福部は上京、海軍に関する塗料研究部門就くが夜光塗料の薬害で昭和17年(1942年)30歳の若さで突然世を去った。
伊福部の死と太平洋戦争勃発(昭和16年)によって札幌ギター連盟の幕は永遠に閉じたのである。

戦後ギター音楽の隆盛

戦後ギターの音が響くのは昭和22年(1947年)アウロラの田辺当貴を中心とする有志が大河原義衛作品集による演奏会(農学部講堂)を開いたのが始まりであるが、戦後ギター音楽隆盛の下になったのは、昭和29年東京の小原安正(士別市出身)が門下の大塚房喜と道内各地で演奏したことから端を発する。[*註1]

大塚は道内ギター愛好者の要望に応え30年東京から札幌に根を下ろし、日本ギター連盟北海道支部(後に社団法人)を結成、道内外のギタリストを結集して「タルレガ生誕100年記念演奏会」を開いた。[*註2]
さらに昭和29年札幌初の外来ギタリスト・アニド女史を招聘、また、大塚は小原安正(昭和31年)、三木理雄(昭和33年)、小原聖子(昭和34年)と中央からギタリストを呼び道内のギタリストに大きな刺激を与えた。

スペインのヘスス・ゴンザレス来演(昭和33年)、昭和34年には大塚門下第1回発表会が開かれ、本格的な指導が始まった。
このご活躍するギタリストの多くは大塚の指導を受けている。
道内のギタリストもいよいよ活動期に入り、昭和35年は賑やかな年となる。
ナルシソ・イエペスの初来演、木島正、渋谷忠三、三上武らが中心の「クレッセンド・グループ」結成演奏、菱川善夫(現北海学園大教授)をはじめ道内ギタリストで組織された、「北海道ギター芸術友の会」旗揚げ公演、伊藤亜子リサイタル(当時西高在学中)、ギタートリオ「カタロニア」演奏会と一挙にギター音楽が台頭する。


[1960年11月6日]:『ギター友の会 北海道支部演奏会』
菱川善夫・伊藤亜子・鈴木一夫・宮田満男・鈴木進・千葉敏生・小沢一介・今田孝保・稲川六郎

[*挿画出典元]:『写真で見る日本ギター史』1992年3月30日初版発行
発行所:現代ギター社/安達右一・監修【GG番号】GG090



昭和37年(1962年)大塚房喜、人見徹ジョイント、佐藤薫主催の「六弦の会」が開かれ、また、渋谷忠三、木島正はそれぞれ「国際ギタリスト会議」(昭和37年)「第1回ギターの祭典」(昭和39年)と初の東京演奏をする。

昭和40年代はギターブームといわれた程ギター熱は高まり、札幌からギターコンクール(現東京国際ギターコンクール)入賞者が出始める。
渋谷忠三(昭和40年・3位)、星井清(昭和47年・3位)、赤坂孝吉(昭和49年・2位)、また木島、渋谷は「第2回ギターの祭典」(昭和41年)で、「二人の友賞」を受賞。
日ギ連道支部は「第4回ギターの祭典」(昭和43年)を札幌で開催、その他「ギター合奏の夕」「北海道ギターコンクール」などを実施し、北林隆をはじめ多くの新人を世に紹介した。
この昭和40年代は「北海道学生ギター連盟」の設立、また、道ギター芸術友の会の後を継いだ形で「北海道ギター協会」も組織され活発な活動をした。



[1966年2月4日]:左側より 大塚房喜、人見 徹、三木理雄 。
札幌のがんセンター設立チャリティ演奏会の帰り、千歳発 全日空60便が羽田沖に墜落し事故死。
二重奏のコンビであった、人見 徹氏・三木理雄氏の両氏が事故死された。
[*フリガナ]:三木理雄 (みき まさお)・・・©公益社団法人日本演奏連盟「演奏年鑑」 「音楽関係物故者の記録」より

[*挿画出典元]:『写真で見る日本ギター史』1992年3月30日初版発行
発行所:現代ギター社/安達右一・監修【GG番号】GG090



昭和50年代もギター熱は衰えることなくコンクール入賞者は続出する。
藤垣秀雄(昭和52年・1位)、佐藤寿一(昭和53年・2位)、さらに日本ギタリスト協会新人賞には、渋谷環(昭和52年)、平野勇(昭和53年)、佐藤洋一(昭和54年)と札幌勢の進出は目覚ましいものがあった。
前述の伊藤亜子は昭和37年の渡米を経てフランスに定住、アンリ・ドリニと夫婦二重奏で活躍。赤坂孝吉は昭和51年スペイン移住、パリ国際コンクール入賞、アルコイ国際コンクール一位となり国際的に活動、LP・CDの録音もあるほか、道国際文化交流賞受賞。
一方、札幌在住の平佐修は昭和48年以来数多くのリサイタルを行い、近年は特にギター室内楽を多く発表している。
昭和51年平佐から始まった「バロックコンサート」は、熊谷政治、大塚和也、佐藤洋一、久野英雄と続き現在130回を超えている。
渋谷環は18歳の東京デビューリサイタル後19歳、21歳と2枚のLPを出し全国21か所のコンサートツアーを行い、昭和62年(1987年)リサイタルで市民芸術祭賞受賞、最近は11弦ギターも演奏。
木島正は自作品によるリサイタル(昭和60年)を開き健在ぶりを示す。藤垣秀雄は2度にわたりポーランドに招かれ(昭和53年・63年)国際交流を深めた。
若さ弘樹は平成元年リサイタルで市民芸術祭賞受賞。星井清はギター新作発表に意欲的。佐藤寿一、ドイツ留学を終えた佐藤洋一、平野勇、松本幸夫らもリサイタル外、多方面に活躍している。
「ギター・マンドリン音楽祭」ギター部門からは、市民芸術祭賞に渋谷環、大塚和也、三浦力松、大見久美、宮下祥子。同奨励賞に横濱勝博、石川桃子が受賞している。

[*転記]:[*出典]:1991年(平成3年)6月28日発行 札幌と音楽/さっぽろ文庫 57/札幌市教育委員会編
   ※「札幌市中央図書館/新札幌市デジタルア-カイブ」には詳細札幌史とし閲覧できます。:https://adeac.jp/sapporo-lib/top/


[*註1]:1953-10-No.13ギタルラより:達藤(大塚)房喜氏(東京)小原ギター音楽北海道研究所(札幌)教授として、全道に及ぶ指導のために、昭和27年11月より滞道中。
[*註2]:現代日本ギター連盟北海道支部結成さる
役員:会長 九島勝太郎
委員 藤沢春、大塚房喜、小林良信(札幌)、竹内昭次郎(函館)、伊膝宏(夕張)菱川善夫(小樽)、永沼典郎(札幌)、紺野善一(大夕張)

早坂文雄
早坂文雄

早坂文雄 [Fumio Hayasaka]

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 1955年10月15日)は、日本の作曲家である。宮城県仙台市出身。
学歴 北海中学校(旧制)卒業

1914年(大正3年)、宮城県仙台市東一番丁(現・青葉区)で、早坂順之助・ふみ江の子として生れる。
兄弟姉妹は兄(夭折)、弟、妹2人がおり、他に順之助と先妻との間に生まれた異母兄がいた。
早坂家は代々宮城県志田郡三本木町の地主の家系で、祖父の代までは裕福だったと言われるが、父(順之助)の代には没落していた。
1918年(大正7年)4月頃に北海道札幌市南7条西7丁目(現・中央区)に転居した。
ただし、本人は生涯にわたって故郷は北海道ではなく宮城県であるという意識を持っていたという。
家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も旧制・北海中学校(現北海高等学校)入学時には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった。

しかし16歳の時に父が出奔し、翌年には母も病没したため、2人の弟妹の面倒を一人で見なければならなくなり、音楽学校への進学を断念し、中学卒業ののち実社会に入った。
音楽への情熱は冷めやらず、ピアノが買えない彼は、ピアノの音が聴こえれば、見知らぬ家であろうとかまわずに、その家でピアノを弾かせてもらっていた。
1934年、旧知であった伊福部昭・三浦淳史らによって「新音楽連盟」が結成されると、早坂もメンバーとなり、同年9月30日に開催された「国際現代音楽祭」では、ピアニストとしてエリック・サティ、マヌエル・デ・ファリャなどの作品を演奏した。
このとき早坂により演奏された、サティの《右と左に見えるもの》、《三つのグノシェンヌ》、《気取りやの気むずかし屋の三つの特異的ヴァルス》、《新婚者の起床》の4曲は、全て日本初演であった。
また同じころ、雑誌『音楽新潮』の寄稿者であった清瀬保二にピアノ曲《君子の庵》を送ったことから、清瀬との交流が始まる。
カトリック教会でオルガニストを務めていた1935年、《二つの讃歌への前奏曲》が日本放送協会「祝典用管弦楽曲」懸賞に第2位入選し、翌1936年(昭和11年)1月に放送初演される。
この時上京し、清瀬保二、菅原明朗、江文也らに会う[2]。3月には日本現代作曲家連盟に入会し、この頃から『音楽新潮』などに寄稿するようになっていく。
また、同年来日したアレクサンドル・チェレプニンの指導・影響を受けた。

木島 正
木島 正

木島 正 [Tadashi Kijima]

1935年~ :小樽市

[挿画]札幌と音楽/さっぽろ文庫 57


戦後の札幌ノギター界を背負ってやってきた一人である。
一見、ものやわらかく、ひ弱そうに見えるが、内に秘めたるものは確たるものがある。
高校時代から独学でギターを習得した。
東京から大塚房喜が札幌に移住することになり、さっそくその弟子となり、頭角を現し、札幌のギター音楽普及に努めることになる。
初め演奏者として、いろいろと演奏活動を行ったが、作曲にも関心を持ちはじめ、川越 守、津田 甫(はじめ)などとも交流するに及んで作品を作りはじめる。
札幌市創建100年記念の「札幌市子どもの歌」の応募で首位に入選、その後、作曲活動も大幅に行うようになった。
「詩とギター音楽」ということで、自作自演を三越ポエム劇場で昭和54年から59年まで継続して行ってきたが、それらをふまえて昭和60年にはギター作品のリサイタルを教育文化会館の小ホールで行い、十分に聴衆を納得させた。50歳のときのことである。
ギターを基盤にした木島の作曲活動は、かなり地味なものかもしれないが、着実に歩んでこの地に定着していくであろう。
幾分、体調をこわしたようだが、今後に期待するものがある。

川越 守
川越 守

川越 守 [Mamoru Kawagoe]

指揮・作曲。札幌市:1932年(昭和7年)~
「私は学生の楽団が鷹のように強靭な翼を持った指揮者に恵まれることを予想した」昭和30年春、疲弊した北海道大学交響楽団の顧問を引き受けた岡不二太郎(現北大名誉教授)が初めて氏(当時4年生)に会った時である。
札幌一校(現南高)でヴァイオリンと出会い、昭和27年北大音楽家入学と共に北大オケに入団。
弦楽器なら何でもこなす重宝な新入生がやがて指揮に乗り出し、北大オケを復活させ、今日、一級品の学生オケにまで育て上げた。
独特の話法と望さばきで力量の不揃いな学生アマチュアの楽団をまとめ上げる力は卓越。
特に「川越マジック」と呼ばれる。
昭和35年の祝典序曲「エルムの鐘」より作曲を始める。指揮同様独学であるが、当初より作風は日本的、北海道的。
以来管弦楽曲(現在70曲)劇音楽を中心に精力的。「西洋の音素材に日本人独特の味付けを」がモットー。
これまで北海道芸術新賞、札幌市民文化賞を受賞。外見はごく普通のおじさん。その人柄と豊富な話題で人をひきつけ多くの「川越語録」を残す。
「日本人の日本人の為の西洋音楽」最近の氏の言葉である。(奥 聡)

[*追記]:渋谷忠三氏、渋谷環氏の和声学の師であり、渋谷環氏のCD「アランフェス協奏曲」オーケストラの指揮者でもある。
ギター二重奏の為の作品も作曲し、ギタルラ社よりピース譜を出版する。

早坂洋一
1961年 早坂洋一

早坂洋一 [Yoichi Hayasaka]

[挿画]1961年-57
現住所・旭川市

昭和26年頃からギターを独学で始めました。
38年より,小倉俊氏門下の川上博氏には3年位学ぴました。
その後先生の意図を受けて教授所を設けました。
32年に日本ギター教授者協会に入会。
旭川ギター音楽同好会を主宰しており, (現在会員は18人です)
一昨年ようやく第1回の発表会を催した次第です。
申し忘れましたが生年月日は昭和7年6月14日です。
写真の楽器は宮本金八氏作。
今は中出阪蔵氏の作品を使用しています。



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