早坂文雄 [Fumio Hayasaka]
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 1955年10月15日)は、日本の作曲家である。宮城県仙台市出身。学歴 北海中学校(旧制)卒業
1914年(大正3年)、宮城県仙台市東一番丁(現・青葉区)で、早坂順之助・ふみ江の子として生れる。
兄弟姉妹は兄(夭折)、弟、妹2人がおり、他に順之助と先妻との間に生まれた異母兄がいた。
早坂家は代々宮城県志田郡三本木町の地主の家系で、祖父の代までは裕福だったと言われるが、父(順之助)の代には没落していた。
1918年(大正7年)4月頃に北海道札幌市南7条西7丁目(現・中央区)に転居した。
ただし、本人は生涯にわたって故郷は北海道ではなく宮城県であるという意識を持っていたという。
家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も旧制・北海中学校(現北海高等学校)入学時には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった。
しかし16歳の時に父が出奔し、翌年には母も病没したため、2人の弟妹の面倒を一人で見なければならなくなり、音楽学校への進学を断念し、中学卒業ののち実社会に入った。
音楽への情熱は冷めやらず、ピアノが買えない彼は、ピアノの音が聴こえれば、見知らぬ家であろうとかまわずに、その家でピアノを弾かせてもらっていた。
1934年、旧知であった伊福部昭・三浦淳史らによって「新音楽連盟」が結成されると、早坂もメンバーとなり、同年9月30日に開催された「国際現代音楽祭」では、ピアニストとしてエリック・サティ、マヌエル・デ・ファリャなどの作品を演奏した。
このとき早坂により演奏された、サティの《右と左に見えるもの》、《三つのグノシェンヌ》、《気取りやの気むずかし屋の三つの特異的ヴァルス》、《新婚者の起床》の4曲は、全て日本初演であった。
また同じころ、雑誌『音楽新潮』の寄稿者であった清瀬保二にピアノ曲《君子の庵》を送ったことから、清瀬との交流が始まる。
カトリック教会でオルガニストを務めていた1935年、《二つの讃歌への前奏曲》が日本放送協会「祝典用管弦楽曲」懸賞に第2位入選し、翌1936年(昭和11年)1月に放送初演される。
この時上京し、清瀬保二、菅原明朗、江文也らに会う[2]。3月には日本現代作曲家連盟に入会し、この頃から『音楽新潮』などに寄稿するようになっていく。
また、同年来日したアレクサンドル・チェレプニンの指導・影響を受けた。