1935年-現在 (東京都)
[*転記]2024/5/16 facebook新間英雄 より
高木さんとの古い写真捜査で見つけた古写真!
私が24~25歳の時代は(1960年頃)写真が誰でも気楽に写せなかったので、古い写真は少ししか残っていない。
当時ギター界では同時に二人の先生(京本・玖島両先生)に師事することは許されない時代であって、先輩方々から随分いじめられたが、それは過去のことどうでもよい。
玖島先生のお蔭で新堀寛己氏と友人になり、その関係で製作家野上三郎氏と懇意になってギターを作ってもらったがそれだけではない、リュートを私の注文で作ってもらった。
一回目が7コース12弦、二回目が10コース18弦、野上氏は宣伝と研究のためほとんど無償の提供であった。
私は約10年間はギターとリュートによるコンサートを行った。「高木さんに負けないのはこれだけだったね!」まあ、一人相撲だがね。
Guitarists in the growth period to the development period成長期から発展期のギタリスト<
前述「記事メニュー」の「萌芽期-成長期のギタリスト」序文、日本の成長は、朝鮮戦争から高度経済成長期にかけて非常に顕著であり、戦争後、日本はアメリカの援助を受け経済復興を進め、特に1950年代後半から1960年代にかけて急速な成長を遂げました。
[*1]日本は「高度経済成長期」と呼ばれる時代に突入し、政府はインフラ整備や教育の充実に力を入れ、工業化・技術革新を進めて経済の基盤を強化しました。
また、輸出主導型の経済政策を採用し、日本製品の品質向上と生産性の向上に努めた結果、日本は世界第二位の経済大国となり、国民の生活水準も大幅に向上します。
社会情勢が安定期に入ると、大衆に精神的な安定の兆しが見えると、人々の欲求は娯楽を求め、教養に目が向けられた。
1950年代から一流の音楽家が続々と来日し、音楽文化が大衆に紹介・啓蒙されていきました。
高度経済成長期(1950年代後半から1970年代初頭)のクラシック音楽の動向は、日本国内外で多様な発展を遂げています。
日本は急速な経済成長とともに、文化的な多様性が増し、クラシック音楽もその一環として進化しています。
<高度経済成長期のクラシック音楽動向>
[西洋音楽の影響]: 高度経済成長期には、西洋のクラシック音楽が日本に大きな影響を与えました。
特に、ヨーロッパの作曲家たちの作品が日本で広く演奏され、学校の音楽教育でも取り入れられました。
[日本の作曲家]: この時期には、日本の作曲家たちも活躍し、独自の作品を作り出しました。
例えば、黛敏郎や武満徹などが挙げられます。彼らは西洋のクラシック音楽の技法を取り入れつつ、日本の伝統音楽と融合させた作品を作りました。
オーケストラとコンサートホールの発展: 高度経済成長期には、オーケストラやコンサートホールの数が増加し、クラシック音楽の演奏機会が増えました。
これにより、一般市民もクラシック音楽に触れる機会が増えました。
<高度経済成長期のマスメディア動向>
[テレビとラジオの普及]: 高度経済成長期には、テレビとラジオの普及が進み、クラシック音楽の演奏やコンサートの模様がテレビやラジオで放送されるようになり、より多くの人々がクラシック音楽に触れることができるようになりました。
[音楽雑誌の増加]: 音楽雑誌も増加し、クラシック音楽に関する情報や評論が広く発信されるようになり、クラシック音楽に対する関心が高まった時期です。
[レコードの普及]: レコードの普及により、クラシック音楽の録音が一般家庭にも普及しました。これにより、クラシック音楽を自宅で楽しむことができるようになりました。
クラシック音楽とマスメディアの相互作用が進んで、日本の音楽文化に大きな影響を与えたと考えられます。
[*参考文献]:
[*1][*2]尚美学園大学芸術情報学部紀要 第4号 クラシック音楽文化需要の変遷 皆川弘至 P.107
NHK教育テレビ「ギター教室」の歴代講師
1966年4月~1967年3月:阿部保夫1967年4月~1967年9月:小倉俊
1967年10月~1968年3月:京本輔矩
1968年4月~1968年9月:奥田絃正
1968年10月~1969年3月:阿部保夫
1969年4月~1969年9月:小原安正
1969年10月~1970年3月:京本輔矩
1970年4月~1970年9月:奥田絃正
1970年10月~1971年3月:寿楽光雄
1971年4月~1971年9月:高嶺巌
1971年10月~1972年3月:阿部保夫
1972年10月~1973年3月:京本輔矩
その後NHKでは「ギターをひこう」で名称を変えスタート。
’73.4月~’85.3月。
講師も阿部保夫,荘村清志、渡辺範彦、芳志戸幹夫、鈴木巌、アントニオ古賀、小原聖子、松田晃演、阿部恭士、など、
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[※] 全国主要ギター教授者総覧 1960年[PDF:10MB]
[*抜粋]Digital Guitar Archive:1960「ギターの友」PDF
このページの紹介ギタリスト :
新間(深谷)英雄
・ 濱田三彦"
・新堀寛己
・大西博愛
・渡辺欣哉
・三木理雄
新間(深谷)英雄 Shinma Hideo
掲載写真・1967年(32歳)新堀ギター室内合奏団公演にゲストで招かれた。
残念ながらリュート弾きの写真は別の演奏会のだ。
写真のリュートは7コース12弦で,1~2弦は単弦、3~12弦はオクターブ調弦だが11~12弦は製品が無くユニゾン。
弦の調達はギタルラ社。
演奏曲目、ラモーの二つのガボット・ロジィのパルティタ6曲・ヘンデルのソナタ・調子のよい鍛冶屋変奏曲(新間編曲)
四枚目のギターのポーズ写真は、野上三郎作特注最高値6万円(店舗最高値が3万円)当時輸入ラミレスが24万円の時代だ。
その隣5枚目のカラー写真は変わったパイプの煙でギターが膨らんでいるわけではない、古さで自然変化だ。[※未掲載:管理人より]
4枚目の野上氏作の現在で、1960年製作、64歳だな。[※未掲載:管理人より]
~<後述略>~
[*転記]2024/5/10 facebook新間英雄 より
二十世紀の名ギタリスト・高木孝さんとの思い出。
田部井さんの facebook 投稿記事「高木孝先生が亡くなった!」を見てすぐシェアして、その記事をワイフに見せにいった。
「高木さんが......」言いかけたが突然涙があふれ何も言えず泣きわめいていた。
昨夜は殆ど眠れず、いろいろな彼との思いでが次々と蘇ってきた。
1960年、私も彼も同じ25歳頃のことだ。
彼は名ギタリストで理論派の玖島隆明先生の弟子、私は実力ナンバーワンの京本輔矩先生の弟子であった。
私は玖島先生の主宰していたギター室内楽団にほれ込んで仲間に入れてもらう交渉をし、両先生の許可を頂き玖島ギター室内楽団のメンバーに入れてもらった。
五重奏の主要メンバーは、鳥居欣哉、高木孝、大西博愛、新堀寛己(新堀学院の総大将!)この連中と私はすぐに仲良くなった。
しかし、近々鳥居さんは沼津へ移転、大西さんは渡西修行で主要メンバーがいなくなるので私の参加が許されたのだろう。
写真01 2010.11.16 天井の響き 高木ギター学院ソロ演奏会 [※未掲載:管理人より]
ゲスト演奏・新間英雄 三曲のスペイン・セレナーデ他
写真02 2010.11.16 天井の響き 高木孝ソロ [※未掲載:管理人より]
写真03 2019.3 新間英雄ラスト・コンサートより [※未掲載:管理人より]
写真04 1959. 玖島先生のギター室内楽団最高のメンバー
左より、玖島先生と愛犬、新間(深谷)英雄眼鏡なし、中央が新堀 寛己御大、高木孝、鳥居欣哉
写真05 1960. 合奏団の演奏、1st.高木孝, 2nd.新間英雄、後はアマチュアで氏名不詳、新堀寛己氏は指に故障があり退団、ギター教育に打ち込む。この後、この楽団は自然解散だったと思う。
1962年、私の27歳結婚時(改姓、深谷⇒新間)の一年間彼の新堀ギター学院発展の手助け(副校長待遇)を行う。
一年後。私は副校長待遇を遠慮し(私は演奏家の道を選んだ)代わりに生徒の中からワイフを一人頂いた、光栄にも浜松の結婚式に新堀御大が参列してくれた。
写真06.参考写真、1959年6月、セゴビア来日記念写真、左後ろに高木、新間と並び写っている。御前演奏したかどうか忘れた。[※未掲載:雑誌挿画より引用]
私と高木さんは30歳ごろから頻繁にリサイタルを行い腕を競い合った。
普段は一か月に一回自分の弟子たちを集めて「ギター音楽愛好会」を結成した、私が会長!だった。
一般のギターフアンや団体が多数集まり、役員や希望者に演奏ステージを与えた。
これが非常に効果があって、私や高木さんの演奏会には会員が切符を多数買い求め上野の東京文化会館小ホール(定員700名)を満員にしてくれたという今では想像もつかない「ギター音楽愛好会」だったのである。
高木さんのギターレパートリィの主は古典のソナタであり完璧に弾いた。(ソルの作品など)
私のギターレパートリィは超絶技巧が必要なメルツなどのロマン派難曲とスペイン音楽。
私や高木さんが30~40歳の期間に頻繁に演奏会を開いたと同時にそれに刺激されて、渡辺範彦,荘村清志、田部井辰雄といった天才的な名手が台頭したのであった。
高木さんの演奏活動は私を上回った。また優れた弟子を私以上に輩出させた。私は常に彼を超すことは出来なかったが、私に長く演奏活動をする力を与えてくれたことは確かである。
その力を思うから私が彼の死を知り、予期もしなかった泣き叫びで我を忘れたことを判っていただけるだろう。
もって瞑べし、高木さん!
濱田三彦 Mitsuhiko Hamada
1938年-現在
1968年09-ギター日本.pdf
浜田三彦(東京)
1. 私はジョンの演奏を63年の来日の際,上野と文京でそれぞれ1 回ずつきいたのですが,その神がかり的な技巧にあきれかえってしまい,自分がギタリストでなければ,もっと楽しく,あるいはもっと異る見かた,聴きかたが出来ただろうに·…••と思っていたところですから,秋の再来日には1 人の「音楽愛好者」としてじっくり聴かせてもらいます。
2. とにかく「ミスしない」ことのみならず,音楽的にも高く,又その演奏スタイルが個性的で確信に満ちている点, 「マネゴト」の多い我々は見習わなければいけないと思います。
3. ただプログラムの大半は,すでに彼のレコードで知られたもの,又は4 年前のプロとほぽ変りなく(もちろん変化はとげているでしょうが)チラシを見てどきどきするたぐいのものではありません。
もちろん「ボピュラー・プログラム」と題してのことですからそれでよいのでしょう。
私としては「マテオ・アルベニスのソナタ」「バッハの組曲」それに最近楽譜を手に入れた「ドッジソンのパルティータ」が楽しみです。
新堀寛己 Hiroki Niibori
1934年(昭和9年) 東京生まれ。
1957年(昭和32年)青山学院大学卒業、新堀ギター音楽院創立。
高音・中音・低音の各音域ギターを考案・開発。ギターオーケストラを創始。
これらは「新堀メソード」として平成7年に世界学術文化審議会より国際グランプリ受賞。
著書は教本の他、『50歳から人生を謳歌するギター演奏のすすめ』(幻冬舎)『健康長寿の維持』(湘南社)など。
大西博愛 Hakuai Onishi
1937年(昭和12年) 大阪市生まれ。
大阪府立西野田工業高校卒業。
1955年(昭和30年)より菅原武男氏に師事。
この間、芸大同声会の通信教育を受ける。
1957年(昭和32年)秋、ギター勉強のため上京。玖島隆明氏の門に入る。
その後渡欧イタリアのシエナ及びスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラにて夏 期音楽講習会でアンドレス・セゴビア、ジョン・ウイリアムス氏にレッスンを授ける。
1958年(昭和33年)春季、秋季、34年秋期新人演奏会出演。
1959年(昭和34年)4月 玖島氏とともに金沢市、岐阜市に演奏旅行。
1961年(昭和38年)度新人努力賞受賞する。
渡辺欣哉 Kinya Watanabe
渡辺欣哉 Kinya Watanabe
1931年(昭和6年) 大阪市生まれ。
成城高校卒業。
1945年(昭和22年)よりギターを始める。
1950年(昭和25年)3月 伊藤翁介氏の下に入門。
1957年(昭和32年)4月より1958年(昭和33年)12月まで玖島隆明氏に師事。
玖島隆明氏の門に入る。
1959年(昭和34年)以後独学。
三木理雄 Norio Miki
1934年(昭和年) 東京生まれ。
19??年(昭和年) 小原安正氏に師事する。
1959年(昭和34年)第7回世界青年学生平和友好祭、音楽コンクールギター部門に出場(ウィーン)。
高音・中音・低音の各音域ギターを考案・開発。ギターオーケストラを創始。
1966年2月4日 札幌のがんセンター設立チャリティ演奏会の帰り、千歳発 全日空60便が羽田沖に墜落し事故死。
二重奏のコンビであった、人見 徹[Toru Hitomi]氏も事故死する。