May 20, 1959: Surrounding Segovia / at Nihonkaku


1959年5月20日:セゴビアを囲んで(東京東中野)/於:日本閣

May 20, 1959: Surrounding Segovia / at Nihonkaku



1959年5月20日:セゴビアを囲んで(東京東中野)/於:日本閣
1列目 左より
1 ~ 21
[1]女性・[2]女性・[3]斎藤太計雄・[4]京本輔矩・[5]高嶺 巌・[6]永田哲夫・[7]小船照子・[8]小船幸次郎・[9]阿部保夫・[10]小原安正・[11]A.セゴビア・[12]須麿弥吉郎(*1]日本ギター連盟会長)・[13]岡田 峻(通訳)・[14]佐々木政夫・[15]溝淵幸五郎・[16]横尾幸弘・[17]男性・[18]青山 梓(作曲家)・[19]亀山寿天子・[20]寸山静江・[21]神田澄江
2列目 右より
22 ~ 46
[22]遠藤純江・[23]清水 環(旧姓:三代)・[24]男性・[25]男性・[26]野辺邦治(ギター製作家)・[27]河野 賢(ギター製作家)・[28]男性・[29]男性・[30]大沢 絆(一仁)・[31]男性・[32]西村そごう・[33]男性・[34]男性・[35]女性・[36]男性・[37]男性・[38]平野雅俊・[39]濱田光彦[40]男性(ギター誌出版)・[41]岸辺成雄(音楽愛好家団体会長)・[42]山口良昭[43]奥田紘正・[44]女性・[45]伊藤翁助・[46]玖島隆明
3列目 左より
47 ~ 66
[47]佐藤 忠(新潟)・[48]人見 徹・[49]小原二郎・[50]大西博愛[51]男性・[52]女性・[53]男性・[54]男性・[55]男性・[56]男性・[57]寿楽光雄・[58]男性・[59]中出阪蔵(ギター製作家)・[60]中出敏明(ギター製作家)・[61]女性・[62]大塚房喜(北海道)・[63]女性・[64]男性・[65]渋谷一雄・[66]小原聖子
4列目 右より
67 ~ 84
[67]男性・[68]男性・[69]男性・[70]大田黒元雄(音楽評論家)・[71]男性・[72]中林淳真・[73]酒井和枝・[74]酒井富士夫・[75]男性・[76]斉藤成司(盲目のギタリスト)・[77]斉藤氏の姉・[78]女性・[79]男性・[80]井上欣也・[81]新間英雄・[82]高木孝・[83]男性・[84]男性
5列目 / 6列目
85 ~ 91
[85]三木理雄・[86]吉田光三・[87]男性・[88]土田匠吾(ギタルラ出版)・[89]人見あや(人見徹の妻)・[90]女性・[91]新堀寛己
5月20日東京東中野の日本閣 5月20日、東京東中野の日本閣において、来日以来東京では二回の公演を終えられたセゴビア先生を囲んで新日本ギタリスト連合、日本ギター連盟の主催、大阪フェスティパル協会、産経新聞社後援で歓迎会が開かれた。
約100名程の出席者の前に、予定時間より30分程おくれて到着されたセゴビア先生を囲んで、紀念撮影がおこなわれ、続いて日本ギター連盟会長、須麿弥吉郎氏の歓迎の辞、セゴビア先生の挨拶があった。
その後、先生に現在日本のギター状況をきいていただこうというプランから、数人の演奏があり、それについて師は大要次の様な注意を与えていた。
〇全般的に音楽性が欠けている。
〇楽器を弾くという態度ではなく、音楽を演奏するという心がまえでなくてはいけない。
〇和声惑に欠けているので、全体的にもっともっと練習が足りない。
〇毎日音階その他のものを、つかれることなくやらなければ行きづまるであろう。
〇和音、アルペジオも、もっともっと勉強しなければならない。ことにアグアド、コスト、ジュリアーニ、ソルなどの練習曲。
尚、最後に会食の場を日本間(ま)にうつして、師を囲んで写真の撮影、サィンなどが行なわれた後散会した。

大阪日本ギター教授者協会主催にょる歓迎会が大阪有恒俱楽部において五月三十日行なわれた。来賓としてティチク社長、同夫人、支配人等の財界人や藤田光彦氏(批評家)、フェスティバル協会側などの約80名の参加者をまじえて盛大に行なわれた。
この日セゴビア氏は、前日の名古屋での独奏会があつたにもかかわらず、その疲労を少しもみせず、代表の歓迎の辞の英文、和文(和紙に書かれたもの)の手の凝りように、満悦の微笑みを浮べられて、挨拶の辞を述べ日本の国のすばらしいことなどを語っていた。

[*1]須磨弥吉郎 (wikipediaより) 秋田県秋田市生まれ。旧制秋田中学校卒業後、広島師範学校に進学するも、一転して法律家を志し、中央大学法学部に転学。卒業後、1919年に外務省入省。 外国語6カ国語に堪能でイギリス、ドイツ等の在外公館に勤務を経て、1927年、在中国大使館二等書記官として赴任。在広東領事館領事等を経て、1932年、在上海日本公使館情報部長となり、対蒋介石政権の情報収集に努める。その後、南京総領事に転じる。 (中略) 戦後は、こうした諜報活動の成果が米国に警戒され、A級戦犯容疑で逮捕・拘留される。その後、1948年に不起訴処分で釈放。公職追放解除後、1953年、第26回衆議院議員総選挙に秋田1区から改進党公認で立候補し当選。1955年の第27回衆議院議員総選挙で日本民主党から再選。自由民主党に合流し、1958年まで2期務めた。1965年、「勲二等旭日重光章」受章。 須磨はスペイン公使業務の一方で、1940年から51年のまでの6年間にスペインを中心とする西洋美術コレクションを形成した。(後略)

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