Itsukushima Perry

Important early guitarists in Japan日本における初期の重要なギタリスト

小倉 俊 氏について『東都におけるギター音楽界』N.M./愛好家の寄稿文より

[*転記]digital guitar archive/1932-31-Armonia P.186/P.187

『東都に於けるギター音楽は、マンドリン合奏と共に育つて来たものであり、今日の多くのギター奏者も何等かのマンドリン合奏団に属してている人である。
その関係からギター独奏は驚くほど稀にしか行われていない。
ギターを熱心に手にした人であるならば、その独奏がマンドリン合奏と離れた意義を持つている事を充分に知つて居る筈である。
東都に於けるプレクトラム音楽は今や合奏全盛であり、ギター演奏はそのプログラムの一つとして演奏檀上に乗る事も無いでは無いが、それも数年前、池上冨久一郎氏等が豊富なる『レパートリー』を持つて横浜等に活躍をなしたのに比すれば何となく物足りない。

実際、合奏演奏会のプログラムとしてギターの独奏が出されるとして、如何にそれが巧であるとしても、私逹は仲々それの奏者を理解することが困難である。
それ故に斯かる演奏によりその人を批評し曲を批判する事は誤りをまねき易い。斯かる付け足し的な演奏は決して私逹を満足せしめて呉れない。

而し去る数シーズンの間、その熱心なる研究と非凡の才能を持つて東都のギター音楽界に活躍をなしている人がある。
すなわちクラバ・タルレガの会長たる小倉 俊氏がそれである。
私は氏の活躍に多大の興味を以て数シーズンの氏の活動を注目して来た。

数シーズン前の氏は未だギター独奏者として左程目立った存在では無かった、然し咋1931年秋の氏の演奏会は氏をして斯界の有数のギター奏者たらしめた感がある。

即ち此の演奏会は最も忠宜にして将来あるギタリストの演奏会であった。

タルレガを尊重し、カルカッシを捨てず、プロカを解し、更にリヨベットを取入れる氏の態度はギター研究者の学ぶべき好模範では無いであらうか、私は何も氏のテクニック、テスタメン・デルアメリヤを奏し(そうし:「言う」の謙譲語)、アルベニスのレエジェンダを奏し、又はアルハムプラの思い出をアンコールに出した氏のテクニックに感心しているものではない。

最近に於てソルのテーマバリイが演奏会のプログラムに乗っている事も知るが、私等が最も注意の目を以つて見て来た所は、小倉氏のギタリストとしての研究態度であったのである。

成程カプリチオアラプを奏し、或はテーマバリイを弾き、又はトレモロスタデイーを奏するの人は数多くあるであろう。
而しタルレガのワルツを或程度にワルツとして弾いた氏のカルカッシであればこそ、又アルハムプラの思い出にしても意義があるのでは無いだろうか。
成程数シーズン前の氏の演奏に比し著しいテクニックの進歩を示して居る今日でも、アルハムプラの思い出の或る部分に於いて伴奏音に無理な所もあり、テスタメンデルアメリャにも明瞭を欠く所が無いではないが、然し生れ出づる前のギター音楽界の氏に於て私逹は何等の加うる可き非難を持たない。
私逹が氏に望む所は斯る問題ではなく、その演奏会ごとに余りに素人的な二部合奏などを取入れる事に就て一考を煩わすとか、使用ホールの音響効果等の問題で氏のギター奏者としての態度に関して多くの要求を持つものでは無かった。

私逹は氏の存在に此上なき期待を掛けている。
勿論ギター音楽普及、否その純音楽的地位獲得に向うには不断の努力が要求せられて止まない。
私と同伴して氏の演奏を聴いたピアニストは音量の不足を遺憾とした。

而し之は共のビアニストのギターに到する認識不足であって私逹の問題とせざる所であるが、テクニカルな缺點[あら:欠点]は斯かるピアニストに限らず、全部の聴衆に野して大問題であるギターとは一流奏者が奏してもあんな雑音が入るのであろうか?の此の疑問は直ちにギターその物の生命に関する問題である。

ギターを手にしている私逹は真のギターを知る故問題は簡単はあるが、ギターを始めて見聴きする者に対しては非常な重大問題である。
この点にギター音楽確立運動に参加する諸氏の苦心があると言える。

而しこの問題もシーズンを重ねる毎に薄らいで行く事実を見るに付け、早晩解決されるものであろうと期待してイる。

最後に一言したいのは私逹はこれ等の問題を小倉氏一人の責任に帰して傍観していてよいのであらうか。
ギター音楽は一人のギター奏者により代表されていてよいのであらうか。
そしてギター音楽を享楽するにはレコードを聴くより他には無いであらうか。

成程セゴヴィアは殆んど絶対的と言われる迄にギター昔楽奏者である。
そしてそのレコードは多くの人々に尚さんされつつ ある。

然しながらレコードを聴きつつ譜を繰つて感心するのばかりが能では無い。
私は多くのギター奏者が熱心なる研究を続け一日も早くマラツの『セレナーデ』が窓辺に流れタンスマンのマヅルカがパーラーに奏されアルベニスの塔が、亦トルロバのソナタがポンスの作品が演奏会のプログラムに書かれギターの全盛の日の来たらん事を願つて筆を置く次第であります。』


1932-31-Armonia P.186/P.187



小倉 俊 Shun Ogura

小倉 俊
1960年代の小倉 俊

小倉 俊[Shun Ogura](1901年-1977年)

昭和期のギタリスト,作曲家
[生年]:明治34(1901)年2月2日
[没年]:昭和52(1977)年10月7日
[出身地]:東京
[学歴]:早稲田大学〔大正13年〕卒
[経歴]:大正5年15歳の時、マンドリンを得意としていた級友が教室でギター演奏会を開いた際、その伴奏ギタリストとして呼ばれてきた吉沢吉太郎の演奏に強く惹かれ、以後、吉沢にギターの手ほどきを受ける。

大正13年:早稲田大学卒業後、大丸に就職する傍ら、ギター演奏の指導を開始。
大正14年:同社を退社して愛知県の豊橋中学教師となり英語と経済学を教えた。

昭和5年:世界的ギタリスト、アンドレス・セゴビアの来日公演に衝撃を受け、教職を辞してギターに専念。
同年:自作を含めたリサイタルを開いてデビューし、以後、さかんに独奏会を開いた。

昭和9年以降は独奏会を開かず、後進の育成に力を注ぎ、演奏、出版、教育面など、日本ギター界の草分けとして活躍。
楽曲の研究も進め、和声楽を山根銀二に学ぶとともに日本的な表現の追及にいそしんだ。

[作品]:「三つの前奏曲」「アルバム・デ・ムジカ・ナシオナル第1番」、組曲「唄」など。
「ギター事典」などがある。弟子に小説家の深沢七郎らがおり、今上天皇も皇太子時代に一時その指導を受けた。

[著書]:ギター奏法‏/ギター音楽事典‏/歴史と人名
カルカッシ・ギター教則本‏/ギター事典‏
ギター重奏名曲集‏/<ギタ-ラ記譜法・演奏法‏br/> [レコード]:1935年10月末 再び、ギター8重奏 コロンビア


[*出典]:日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
[*出典]:日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)

小倉 俊
宮本金八 製作ヴィオロンギターを持つ小倉 俊

小倉 俊 Shun Ogura

前出、『ARTICLES/日本における初期のギターと重要なギタリスト』より再掲載。

小倉俊 (1901-1977)は、この影響力のあるギタリスト(武井、中野、沢口、大河原)と同じグループに属していましたが、他のギタリストとは違い、主な活動は教育でした。

また、沢口や中野と特に違うのは、私立大学の早稲田を卒業したことです。
外国の出版物を研究するために、スペイン語を学ぶべきだと決心し、東京外国語学校に入学して卒業しました。

ギターを始めたのは16歳くらいの頃だったが、初めてリサイタルに出演したのは1930年4月、慶応マンドリンクラブでの演奏だった。
翌月には「小倉俊の夕べ」が開催されたので、成功だったに違いない。
彼はコステ、カルカッシ、セゴビア、タレガ、ソルなどを演奏した。
同じコンサートで、マンドリンアンサンブルでも演奏し、声楽作品の伴奏も担当した。



1938年、彼はプジョールの『ギターとその歴史』を翻訳し出版した(主に生徒向け)。
その後も『小倉ギター演奏技法』『ギター記譜法と演奏法』『ギター音楽辞典』『ギター辞典』(参考文献参照)など多くの本を出版した。
これらの多くは同様の内容で、時とともに更新され、100ページ強から1970~74年には2冊の本になるほどの情報量になった。

彼は長年、日本最大の音楽出版社「音楽之友社」のギター顧問を務めた。
この立場で、彼は直接的または間接的に、音楽之友社が出版した教則本、アンソロジー、その他のギター関連資料の量に大きな影響を与えた。



小倉氏は、天皇が皇太子であった当時、初のギター教師を務めたという栄誉に輝いた。(現在の天皇は1989年に皇太子の位に就いた。)


左の写真は1929年に撮影されたもので、彼が手にしているのは宮本金八の「バイオリン・ギター」である。
このギターは大河原の写真に写っている「バイオリン・ギター」よりもアルペジョーネに近い形状をしていると思われる。

小倉 俊  Shun Ogura
小倉 俊 Shun Ogura

小倉 俊 Shun Ogura

ギター独奏
1930年4月、慶応マンドリンクラブでの演奏だった。
1930年5月 「小倉俊の夕べ」が開催された。
彼はコステ、カルカッシ、セゴビア、タレガ、ソルなどを演奏した。
同じコンサートで、マンドリンアンサンブルでも演奏し、声楽作品の伴奏も担当した。



ゲスト:小倉 俊(ギター独奏) guest: Shun Ogura (Solo Guitar)
リンゼイ[George C. Lindsay]
雨滴れ(雨だれ)[Raindrops]
ピニョッキ[Emanuele Pignocchi]
舟歌[Barcarola]
【管理人メモ】 曲に関する情報がほとんどない
カルカッシ[Matteo Carcassi]
ワルツ[Waltz]
【管理人メモ】 調査不能。op.59-1c、op.4-(1-6)、op.11-9のどれか?
宮田 政夫[Masao Miyata]
鵠沼の思い出(鵠沼の思ひ出)[Kugenuma-no-Omoide]



[*転載]:digitalguitararchive/1932-33-Armonia P.232-P.235

宮田政夫と私共:小倉 俊

宮田君(1900ー1930)と言うより私共には、政ちゃんとか、マー的と言う方がなつかしいのですが、その亡き宮田政夫君の作品が改めて仙台アルモニアから澤口君の御好意でプリントされるのは非常に嬉しい事です。
作品については別に私が申し述べるすじでもありません。ただ申し上げて置きたいのは、彼の生活ですが、それも精しく申し上る適任者でもありません。

彼を第一マンドリンとし、加納徳三郎君を第ニマンドリンとし、内田寅夫君をマンドーラとして私がギタルラを受持つて作りあげた、マンドリン・クオルテット・”ヴェネチャ”が私には、宮田君との共同生活の最も愉快であったものです。
”ヴェネチャ”は、私のみならす、四人の最も楽しい生活でありました。
難かしいところへ来ると、宮田君は鼻穴を開閉し、第ニマンドリンは、首を横に振りながらニヤニヤ笑い、マンドーラは、舌をベロベロとさせ、ギターは、鼻ィキ荒くなるのも楽しい思い出となりました。
毎週二回乃至一回の定期練習は数年の間続けられましたが、宮田君が病気になり、学校を出て就職の為、みんながヴェネチャの練習を打切ったにせよ再度の復活を望んでいましたが遂に宮田君の死に総ては終りました。

その頃の手紙が少し残っていますーつを発表いたしましょう。

我が最も親愛なるSIGNON:Mandolin/第2Mandolin/Chitarra・・・その後はは大変「フェルマータ」が続いて、失敬しちゃいました。
こんな病院へたたたき込まれて毎日々々ふらふらしてる中にもう一週間たってしまいました。
どうしたわけか、すつかり筆無精になっちまつて「フェルマータ」の小節が「*新しい記号」になってしまいました。
さぞかし皆様で御案じ下すつてることと邪推致しますから、今日は思ひ切つて精力とペン先とインクとを消耗して書きます。

(中略)・・・僕の病氣があんまり好いのでとうとう我まん仕切れす、今日か明日かと飛び出すchanceをねらつて居ましたが、とうとう、明日(18日) 相州の鵠沼海岸の河東屋へ引き越すことになりました。
まづは目出度し、目出度しです。
そう云ふわけで、まるでuneasyな生活なので、とても楽想なぞ出やしません。
出そうと思って威気張ると、出るのは下の方から何んとやら……で、この間一寸書き度くなったから、五線紙を前に鉛筆を持つと、賢者と云うmonsterに折角の楽想を目茶苦茶にされてしまいました。

若し此の時monsterの回診さえなかったら或は永世不滅の傑作が出来たかも知れないと思うと一層、腹の虫が不承知です。
Mandolinも一日一回位しか弾く気になれないのです。
本もとても読む気になれず、伊太利語の勉強などはもっての外。それぢや一体何をしてるんだと御思ひになるかも知れませんが、何んにもしてないとお答へするより外ありません。

只朝6時から、夕8時まで、2時間おきの検温に忙殺されてるのです。 (中略)・・・Signore Chitarraさんも妙だがこっちへ来る前Chitarraの譜を3つ4つ買つて来ました。
未だ弾かないんですが、好いのがある様です。其の中皆なして、あづまやへ来て下さい。
そして弾いて見て下さい。

今マンドリンだけしか持つて来てありませんが、鵠沼ヘ行ったら、ギタルラもとり寄せる筈です。
(中略)・・・時に共後Capriccio Zingaresccはどう。 もうお手のものなんでしょう。一度遊びに来て聞かして下さい。
とにかくTrioで或日・・・或は或日と或晩とその翌日の或日位、遊びに来て長閑な春の海のひねもすのたりのたり哉、てな気分を味つてはどう。
と、ここですすめるまでもなく、やって来ること、お待ち申して居ります。
クラブの三田の方のも、曲目などきまつて盛んに練習なすつてる事とお察してます。
まあ10日に1度位はお江戸の地をふむ事が出来るでせうから、其の時でも暇があったら練習でも伺い度いと思つてます。
秋にはMunierの10年祭をやりましょうね。
Trio originaleでもやって置いて下さい。
そして僕等のQuartettoも試演会てな事をやろうじやありませんか。
如何。-(中略)-それから、おぐら、きたるら、しにょうれに頼みます。伊太利語をなるたけ勉強しておいて下さい。
教わるから。-(中略)-こうやってると頭がどうかして居てさっぱり書けません。
明日からは鵠沼ののんびりした生活です。ここよりは少し話相手がなくて、口淋しいかも知れませんが、此処でNurseとの夫婦暮しよりも、有味濕潤だらうと存じます。兎に角、皆さん、これでさいならだ。
そして遊びに来て呉れ給え。クラプのみんなにもよろしく。真実なる貴兄方の一番より、此家は番外一番だ。・・・それから、その第1回の成績をムニエル10年祭で発表いたしました。そして之がヴェネチャの最後の演奏会です。
そのプログラムは次の様なものでした。

[プログラム]
1.ニ長調四重奏曲(ムニエル策128番)
2.ギター二重奏曲
 ・バルカローラ(ムニエル作262番より)
 ・ガボッタ(ムニエル作262番より)
3.トリオ・オリヂナーレ(ムニエル作156番)
4.祈り/愛の嘆き
5.独奏「ラブソング」(ムニエル作275番)
6.ト長調四重奏曲(ムニエル作76番)
[1921年12月23日]

私共は、マンドリンの我国に於ける開花期、及びギターの揺藍期の育ちです。
すべての技巧が発見されて演奏された時代です。希望の時代でした。
現代とは全く夢の様な別のロマンチイクな時代でした。
その後宮田君はR・M・G誌を発刊する様になりましたが、此頃は私は宮田君とは離れて居りましたので誌上で、その後の運動を知るのみでした。
そして、私が東上した時宮田君は,その病の為に芸術家として悲惨であった生活を天国に移伝したのです。
『鵠沼の思ひ出』は初期の作品です。多分月村さんが初演されたでしょう。

『メロデイア』四重奏曲は私は、よく存じません。以上で宮田君の一片影をお紹介申し上げた事にいたします。

1932-33-Armonia P.232-P.235

「クルブ・ターレガ」第14回演奏会
「クルブ・ターレガ」第14回演奏会

[1938年5月14日]「クルブ・ターレガ」第14回演奏会

[挿画]小倉俊氏主宰「クルブ・ターレガ」第14回演奏会(5月14日)
前列左より小栗孝之、江添滋子、洒井菊野、小山喜美子、宮本金八、小倉俊、久保百合子、山本朝香、飯坂虎二郎、籐村観の諸氏
後列左より3番:鄭世源、4番:深澤七郎、5番:山添正二、6番:京戸章の諸氏。

1938年  小山喜美子リサイタル
小山喜美子リサイタル

1938年12月11日 小山喜美子リサイタル

[挿画]:1938年 小山喜美子リサイタル
小山喜美子氏(東京 小倉門下)
1938年12月11日東京YWCA でソサイタルを開く。
本年は女性ギタリストの躍進目覚ましい。

小山喜美子氏リサイタル 記念写真
(昨年・12月14日本邦斯界参照)

[前列右より]:菊池綾子、江添滋子、小倉俊先生、小山喜芙子、洒井菊野、福間日出子
[後列右より]:藤村観、松本正次郎、山添正二、小梨孝之.深澤七郎、飯坂虎二郎、本多辰弥の諸氏
[*挿画]digitalgukitararchive/1938-72-Armonia P.34

小倉俊記念レコード
小倉俊記念レコード

小倉俊記念レコード

職業ギタリスト 作曲家
生年月日明治34年 2月2日
出身地東京都
学歴早稲田大学〔大正13年〕卒 経歴大正5年15歳の時、マンドリンを得意としていた級友が教室でギター演奏会を開いた際、その伴奏ギタリストとして呼ばれてきた吉沢吉太郎の演奏に強く惹かれ、以後、吉沢にギターの手ほどきを受ける。
大正13年早稲田大学卒業後、大丸に就職する傍ら、ギター演奏の指導を開始。
大正14年同社を退社して愛知県の豊橋中学教師となり英語と経済学を教えた。
昭和5年世界的ギタリスト、アンドレス・セゴビアの来日公演に衝撃を受け、教職を辞してギターに専念。
同年自作を含めたリサイタルを開いてデビューし、以後、さかんに独奏会を開いた。
昭和9年以降は独奏会を開かず、後進の育成に力を注ぎ、演奏、出版、教育面など、日本ギター界の草分けとして活躍。
楽曲の研究も進め、和声楽を山根銀二に学ぶとともに日本的な表現の追及にいそしんだ。
作品に「三つの前奏曲」「アルバム・デ・ムジカ・ナシオナル第1番」、組曲「唄」など。
著書に「ギター事典」などがある。弟子に小説家の深沢七郎らがおり、今上天皇も皇太子時代に一時その指導を受けた。
没年月日昭和52年 10月7日 (1977年)

[*出典]:日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)