Junio,1936: La guitarra en el Japón,
スペインの古い雑誌「Biblioteca Fortea Revista Musical」スペイン語とフランス語のテキスト。で書かれており、出版はダニエル・フォルテア・イ・ギメラ[1878-1953]であった。
下記記事は、その雑誌に寄稿された(1936年6月号)日本公演での印象が記事として紹介されていた。
小倉俊氏は以前からピアニストのジャビエル・アルフォンソ氏と友人関係であったことが伺える。
この日本での公演は、マヌエラ・デラ・リオ(スペイン舞踊家)、夫であるギタリストのホアキン・ロカ・カロスカ、ピアニストのジャビエル・アルフォンソである。
1935年11月28日、30日、12月3日、5日、6日の5日間、東京日比谷公会堂での公演後に上海公演に向かい、再度日本に戻り、博多公演の後1936年1月17日にアルフォンソ氏は東京に戻り、小倉俊氏と再会してのち、1月22日に神戸から船便で出航されている。
Biblioteca Fortea Revista Musical was published by Daniel Fortea in Madrid from 1935 through 1936.
Published dates: 1935-36
Total number of issues: 14
International Guitar Research Archive, Bickford Collection
Biblioteca Nacional de España, Hemeroteca Digital[*ソース カリフォルニア州立大学]
El pianista don Javier Alfonso, en Tokio, con el profesor Ogura, el guitarrista señor Roca, la bailarina Manuela del Río y el señor Sequine
東京における、ドン・ハビエル・アルフォンソ氏(ピアニスト)、小倉俊教師、ホアキン・ロカ氏(ギタリスト)、マヌエラ・デル・リオ(スペイン舞踊家)、関根氏
[*挿画]:[1]biblioteca fortea /revista musical
[2]digitalguitararchive/Biblioteca Fortea Junio,1936 Num.18/P.1
♪♪♪日本のギター[1] | 本誌の発行が私たちに与えてくれた最も嬉しい驚きのひとつは、スペインから遠く離れた国々で本誌が関心を集めているという証言を得たこと、そして私たちのプロパガンダが、私たちとは異なると思っていた国々で、遠いながらも熱狂的な反響を呼んでいることを実感したことである。そのひとつが日本である。 少し前までは、私たちの音楽出版物に何人かの購読者がいて、彼らからギター音楽に対する熱意の証しを受け取っていたのだが、『BIBLIOTECA FORTEA』の出版以来、私たちは何人かの愛好家と頻繁に連絡を取り合い、この楽器の栽培がいかにこの国で広まっているかを知った。 また、スパニッシュ・ギターのために作曲された曲もいくつか届いており、そのいくつかは、日本の作曲家たちがこの楽器の最も親密な側面に慣れ親しんでいることを示している。 その中でも、小倉 俊と斎藤太計雄の作品を喜んで紹介したいと思います。 |
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クラブ「タレガ友の会」(小倉氏門弟たち)東京にて
[*挿画]:[1]biblioteca fortea /revista musical
[2]digitalguitararchive/Biblioteca Fortea Junio,1936 Num.18/P.2
♪♪♪日本のギター[2] | 私たちの親友である著名なピアニスト、ハビエル・アルフォンソが日本からマドリードに戻ったばかりだと聞いて、私たちは彼を訪ね、日本での印象を語ってもらった。 ハビエル・アルフォンソは、スペイン人ダンサーのマヌエラ・デル・リオ、フラメンコ・ギタリストのJ.ロカとともに、日本で数ヶ月を過ごし、私たちの踊りと音楽を広めてくれた。 アルフォンソ氏は、私たちの踊りと音楽が日本人に熱狂的に受け入れられ、賞賛されていること、そして日本の典型的な歌が私たちの 「カンテ・ジョンド 」と親和性があることを教えてくれました。 我々はアルフォンソ氏に日本の印象を読者に伝えるよう依頼したところ、快く以下の記事を送ってくれた。 『中国や満州では、リサイタルの聴衆がほとんどヨーロッパ人で占められているため、私たちの芸術に対する現地の人々の反応を判断することができなかったが、日本ではそのようなことはなく、スペインの大衆芸術がその造形的、音楽的側面において重要視されていることを理解することができた。 舞踊は、日本人の精神とスピリットを表現する最も古典的で代表的な手段であり、したがって、舞踊は、そのすべての表現において、日本人が好む見世物のひとつである。』 |
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小倉俊教授(左)と歌手の小見村恵美子[*漢字不明]さん、関根氏、小倉夫人
[*挿画]:[1]biblioteca fortea /revista musical
[2]digitalguitararchive/Biblioteca Fortea Junio,1936 Num.18/P.4
♪♪♪日本のギター[3] | 『近年、多くの音楽院、音楽学校、コンサート・オーケストラが誕生し、あらゆる音楽問題に対する熱意と好奇心の核が形成され、西洋芸術への取り込みの動きの中で、スペイン音楽は日本の音楽愛好家の嗜好の中で優位な位置を占めている。 数年前、初めてこの国を訪れたとき、私は今と同じように、スペイン音楽への共感の流れの中で、私たちのクラシック・ギターと代表的なギターが優先的な位置を占めていることを知ることができた。 日本に到着したスペイン人が、駅で「ロス・アミーゴス・デ・タルレガ」と呼ばれるギタリストの協会の一員であり、スペインギターとそのために書かれたすべての音楽の研究、知識、普及を唯一の目的としていると名乗る大きな委員会に迎えられたとき、満足とお世辞を感じないはずがない。 これは、私が東京という素晴らしい都市に到着したときに起こったことである。 正直に告白しなければなりませんが、私はその様なことを予期していなかったいなかったので、驚きはさらに大きかったのです。 そのとき私は、日本の愛好家たちがギターの作品と編曲の完全なアーカイブを持っていること、そして彼らが知らないこの楽器の奏法が書かれていないことを確認することができました。』 |
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Billete de uno de los recitales de guitarra celebrados en Tokio
[*挿画]:[1]biblioteca fortea /revista musical
[2]digitalguitararchive/Biblioteca Fortea Junio,1936 Num.18
♪♪♪日本のギター[4] | 『このギター・ムーブメントは、当然ながら西洋文明全体との接触が最も激しい首都東京に限定されたものだと思うかもしれない。 当然、西洋文明全体との接触はより激しい。 しかし、この運動は日本全国に広がり、ギター・クラブのない都市はないに等しく、内陸の小さな町、博多でさえ、私はギター協会を見つけた。 そして、このような辺鄙な国の片隅にたどり着いた私たちが、ソルジャーを知り、演奏しているギタリストを見つけたことは、本当に驚くべきことだと認めよう。 が、ソルス、アグアド、ジュリアーニ、コステ、ナルバエス、タルレガ、そして現代の作曲家たちを知っていて演奏するだけでなく、サントス、ラミレス、エステソなどの名前を、まるで彼らにとってまったくなじみのあるものについて話しているかのように、あるいは国の「三味線」や「富士」(*)の製作者であるかのように発音するのだ。 同時に、他の分野での日本の産業の発展に伴い、楽器の製作も高いレベルに達し、今日、日本では立派なピアノ、弓楽器、そしてギターが生産されているが、これらは音が悪く、品質も悪いため、まだ大きな進歩はしていない。 ギターを学ぶ日本人は、スペインのあらゆるものに熱中するあまり、私たちの言葉を知らなければならないとも感じている。 これは、このような遠い、しかし歓迎に満ちた土地に旅をするスペイン人が受ける、わが国への千差万別のオマージュのひとつである。菊の国を訪れてください。 無限の自然の美しさに目を奪われ、私たちとはまったく異なる文明の伝統が、芸術の素晴らしさに現れているのを目の当たりにするでしょう。 礼儀正しさがこの国の人々の行動規範であり、歓待のシャワーを浴びせてくれるからだ。 そして幸運なことに、もしあなたがギターを手にして、あなたの仕事の特質であることを示すことができれば、ギーサの土地に滞在している間、名誉ある客人として、すべての扉が開かれることだろう。』 [執筆者:ハビエル・アルフォンソ] |
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出典「Centre de Documentation de l'Orfeó Català」
スペインの舞姫マヌエラ・デル・リーオとギタリスト、ホアキン・ローカの来朝
digitalguitararchive/1936-53-54-Armonia/P.53-P.55
小倉 俊
スペインの舞姫マヌエーラ・デル・リーオが来朝する事は、久しい以前から知っていた。
そして、フラメンコ奏者を随伴するであらう事も、興行目的からた易く考えられる事であった。
突然、ビアニスト、ハビエル・アルフォンソ君が電報で東京駅着の時間を知らしてくれた。
アルフォンソ君は、以前、やはり、スペインの舞姫の民族舞踏の第一人者テレシーナに随伴してきたビアニストである。
二度日の来朝なのである。全く、『友あり、遠方より来るー』である。
私は喜んで駅に迎えた。
やがて、一等車から、美しい舞姫、モレーノのギタリスタと後から、色の白いアルフォンソ君が出てきた。
雑然とした混乱の後は、新聞社の写真班の活動が続いた。舞踏評論家、蘆原英了氏と私は、アルフォンソ君をつかまえた。
そこで始めて、ギタリスタのローカ君に紹介された。
明Hの午前11時半、ホテルにて会う約束をして駅前のタクシーで此の日は別れた。
あくる日、ホテルで、私はアルフォンソ君と会って、今度のギタリスタは、フラメンコとクラーシコの奏者である事を聞かされた。
やがて、ローカ君と舞姫がやってきた。そして、そこでその二人が、夫婦である事も知った。
二年前に結婚した等々と、お茶をのみながら楽しい時間を過した。
かくして、思ひ出深き幾日かが全く忙はしく過ごされた。
その間に受けた。彼等三人からの音楽的発散の2、3を記して彼等の訪日の記念にしよう。
先づ、最も興味を持たれるローカ君に就ては、語君がステージで見られる如き人好きのする好漢であると申し上げられるであろう。
やがて彼の演奏は、日本コロンビヤから、4、5枚色々のコンビで売り出されるであろう。
私がステージ及び.彼の部屋にて聞かしてくれたものは大体次の如きものであった。
- Lagrimas de Tarrega
- Adelita de Tarrega
- Preludio No.7 Chopin de Tarrega
- Leyenda Albeniz
- Fandanguillo Torroba
- Farruca J.Roca
- Granadinas J.Roca
- Danza Mora Serrano
- Alegria J.Roca
- Jaleo J.Roca
- Soleares J.Roca
- Bulerias J.Roca
楽器は、Domingo Estesoの1934年製のものを使用して居る。フラメンコには之はよいと云つている。
絃はMadrid RamireNのものを使用。時々、カボタストを使用して居た。
コンシエルトとしては、サントス・エルナンデスの楽器を褒めていた。
アルフォンソ君は、フラメンコは、音楽ではない等と云つて居た。
確であるが、一面の楽しめる技術として、日本の流行歌伴奏形式と共に―つの有用なる存在を否定する訳には行かないであらう。
ビアノ、カスタニエットギタラ、足の音のコンビの曲も聞かしてくれた。
アルフォンソ君は以前よりズットョイ腕をきかしてくれた。スペインの物では実にに確かなものだと高木東六氏は賞嘆して居た。
フアリヤの『火の踊』等、譜を大分手を入れて面白いフインガリングで弾いて居た。
之は、フアリア直伝だとも高木氏に説明をして居った。ギタリストとして引きつけられるものは、次の様な
- Serenata J.Malatz
- Sevilla Albeniz
- Legenda Albeniz
- El amor brujo Falla
ローカ君は、バルセローナとバリを本拠とし、アルフオンソ君は、マドリッドとパリを往来して居る。
ローカ君の住所として教えられたものは、パリ宛である。
勿論フラメンコとしてはニーニョ・サビーカスには勿論モン卜ヤ氏にも一歩を譲るであらうし、ギタリストとして、フォルテア氏のレヴィスタの45号に挙げられているギタリスタ等の一群よりは下位かも知れないが、けれども、日本では、彼氏より多くの学ぶべき点を十分に含んでる奏者である。
インターヴューの様な話をする機会がないので、経歴の様な話は、未だ聞いてない。(1935年12月8日)