Itsukushima Perry

Guitarists in the budding to growing period萌芽期から成長期のギタリスト

1945年の終戦直後、日本の経済状況は非常に厳しいものでした。
第二次世界大戦の戦禍により、インフラが壊滅し、多くの工場や住宅が破壊されていました。

戦争による人的損失も甚大で、労働力が不足し、経済は混乱状態にあり、インフレーションが進行し、物資の不足が深刻でした。
食糧不足も問題となり、多くの人々が栄養不良に苦しんでいました。
また、軍需産業が主体であった経済構造が崩れ、戦後の復興に向けた新たな経済政策が求められた時期でした。

このような状況の中で、日本はアメリカの経済援助を受け、復興を進めることとなります。
1947年には「ドッジ・ライン」と呼ばれる経済政策が導入され、インフレ抑制と財政再建が図られました。

この時期は日本の歴史の中でも特に困難な時期であり、多くの人々が苦労しながらも、復興への道を歩んでいきました。

日本の成長は、朝鮮戦争から高度経済成長期にかけて非常に顕著でした。
朝鮮戦争(1950年-1953年)の際、日本はアメリカ軍の補給基地として重要な役割を果たし、経済的にも大きな恩恵を受けています。
戦争後、日本はアメリカの援助を受け経済復興を進め、特に1950年代後半から1960年代にかけて急速な成長を遂げました。
この時期、日本は「高度経済成長期」と呼ばれる時代に突入し、政府はインフラ整備や教育の充実に力を入れ、工業化・技術革新を進めて経済の基盤を強化しました。
また、輸出主導型の経済政策を採用し、日本製品の品質向上と生産性の向上に努めています。

この結果、日本は世界第二位の経済大国となり、国民の生活水準も大幅に向上しています。
高度経済成長期は、日本の現代経済の礎となる重要な時代でした。


このページの紹介ギタリスト : 阿部保夫 ・ 人見 徹 ・大沢 絆 (一仁)  ・宮田俊一郎 ・横尾幸弘  ・近藤敏明  ・玖島隆明

・小原二郎


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阿部保夫 Yasuo Abe

阿部保夫
阿部保夫

1925年-1999年
クラシックギタリスト

1925年(大正14年)9月15日生れ(宮城県石巻市)
1936年(昭和11年)12才からギターの勉強をはじめる。
1942年(昭和17年)17才の時に地元で第1回リサイタルを開く。(戦時下のため軍歌も取り入れる)

同時期石巻交響楽団のアコーディオンを担当する。

1945年 (昭和20年) 主計少尉として中国の羅南に入隊し終戦時に広島に復員する。
1947年(昭和22年)上京(大蔵事務官として転任)する。
1948年(昭和23年)阿部ギター研究所設立する。

池内友次郎氏(作曲)、小船幸次郎氏(演奏理論)に師事する。

この時期、古賀政男氏主宰の「古賀ギター歌謡学院」で講師を勤める。

1949年(昭和24年)第1回全国ギターコンクールで第1位を獲得。
1954年(昭和29年)7月にイタリアのキジアーナ音楽アカデミーへ留学し、ギターの神様アンドレス・セゴビアとプジョールに師事する。
1956年(昭和31年)の帰国後は、リサイタル、オーケストラとの共演と活躍し、教育者としても、多くの門下生を育て上げ、NHK教育テレビの「ギター教室」の講師としても活躍しました。
1969年(昭和44年) 日本ギタリスト協会発足、初代委員長として10年余りコンクールを主宰する。 1999年(平成11年)12月26日に、心筋梗塞のため死去(74歳)。

[*参照]2005 Abe Guitar Laboratory[阿部恭士]氏Webページより


★入賞者を語る★
阿部保夫君について:菅ノ又信太郎

丁度私が30歳位で阿部君が14、5の紅顔の美少年5月の今頃真?の銭湯に誰もなく唯一人気持ちよくひたっていると後から入って来た少年に突然菅ノ又先生ではありませんかと一物を下げたまま直立不動の姿勢で尋ねられた。
そうですと答えるとギターを教えてくれませんかと云はれた。
私ほ当時誰にも数えてなかったので面倒臭いと思ったがその真剣な少年らしい態度と気持ちが気に入り教える事にした。
前からやっていたそうだが最初はカルカッシなど教えたような気がする。
阿部君は非常にまじめな少年で物を言う時口をとがらし吃る癖があった。
いつも鼻の頭に汗をかきかきギターを弾いた。
私の気の向かぬ日は一晩私の弾くのをきちんと坐つてきいていた。
阿部君の今日あるはあのねばりと熱心さにもよるが理解ある父母殊に母親の力が大きかつたと信ずる。
今だに阿部君から嬉しい便りがくると体格のよい身体に満面笑みをたたえて先生のおかげでおかげでと見せにくる。
この母親なるが故に阿部君ありだと思う。
阿部君が東京にいく前、自分の技巧になお自信を持たなかったが、私は絶対の自信を持つて良いと断言した。
もっとも阿部君の技巧は、はるかに私の及ぶ所でないし、叉現在の日本には同君程の技巧家は数少ないと思っていたから。
阿部君の今後は技巧以上のものを獲得すべく―理論方面いやそれにもまして人生を深くみつめて健全なる音楽家として大成せられんことを切に望む。
阿部君よ、総ての方面に裸でぶつかり偉大になれ。
昭和24年5月28日。


<挨拶>
Message 古賀政男Masao Koga高橋功I. Takahashi
盛夏酷暑の折、誌友各位如何御消光ですかお伺い申上げます。
阿部保夫君のイタリア留学について格別の御支援と激励を賜わりましたことに対し御礼申上げます。
阿部君は予定通り去7 月4 日夜羽田発空路イタリアに向いました。
その際は、新日本ギタリスト連合の会員諸氏はじめ多数空港までお見送り下さいまして、行を壮にしていただいたことに対して重ねて御礼申上げます。

阿部君の第一信によりますと6 日ローマに安着、8 日にシエナに行き、直ちにCount Guido Chigi Saracini に挨拶するためにキジ宮殿に伺い、心温まる歓迎の言葉をいただいたそうです。
ところがMaestro Pujol のレツスンもMaestro Segovia のレッスンも共に8 月15 日からと延期になり、それ迄約ーカ月をどうしようかと思いましたが、伯爵夫人の特別の心づかいでその問も奨学金を下さるということになったので、開講までシエナに落ちついて勉強することにしたそうです。

キジ伯爵はお土産に差上げた中野二郎氏の献呈曲や玉虫塗りの花壺など大変よろこんで下さつたそうです。
キジ伯爵並びに伯爵夫人の御好遇に対し、遥かに深甚の謝意を表して居る次第です。
ーカ月後にはいよいよ開講となるわけですが、内地では出発準備のあわただしさで、思うような練習も出来なかつたので、却つて好都合だつたと言えるかも知れません。

若い、ねばり強い、頑張りのきく阿部君のことですから、多大の収獲を挙げることは確かです。
勿論短期のレツスンですから、俄かに阿部君の演奏スタイルが変るとか、見違えるほど上達したとかいう結果を直に期待することは出来ないにしても、その成果が逐次わが国斯界にプラスしてゆくことは信じていいと存じます。
げんに、遠く祖国をはなれた阿部君に激励と期待の言葉を贈ると共に、誌友各位に感謝をこめて再び御挨拶申上げる次第です。


昭和30 年7 月

1956-05-ギターの友

阿部保夫
阿部保夫

[演奏会評]:小船幸次郎
阿部保夫 帰朝ギター独奏会
阿部君の演奏を聴くのはコンクールで阿部君が一位になった時以来である。従ってセゴヴィヤのレッスンを受けに行く直前の阿部訂の音が、レッスン受けて帰って来てどの位変ったのか私には分らない。
~<前略>~
阿部君以後コンクールで優勝している人見、京本、蜷川、北沢君逹のヂェネレーションが持ってゐるギター演奏の技巧は、その前のヂェネレーションが持ち得なかったものを持っている。
これは前の人逹よりも若い時からギターを習った賜物である。
現在のギター曲が要求している技巧に答えられる技巧を既に獲得しているように思う。
つまり世界の水準に逹したと言う意味である。
阿部君が今度演奏したタルレガの演奏会用ホタにしても、トロバのアレグレットにしても、ヴィニアスの独創的幻奏曲、アルベニスのセヴィリヤにしても、あの程度の演奏をするには世界の或水準に逹しなければ不可能である。
その意味で一応賞賛されてよいと思う。
最上の演奏をした場合の技巧はアニドの演奏技巧と匹敵出来るであろう。
併し、アニドは一度も演奏に破綻を来たさなかったが阿部れは僅かではあるが音をはづしたり、つかえたりした。
僅かに見えるこの差は実際には非常に大きく、この差を無くするものは長い経験以外にはない。
これは理屈や観念ではない。
ここが演奏家の最も貴いところだ。
しかし技巧だけでは芸術家にはなれない。
楽に対する理解の方向とその深さ、高さ、広さが芸術家であるかないかを決定する。~<後略>~

1956-05-ギターの友

人見 徹 Toru Hitomi

人見徹
人見 徹 1960年代

1923年-1966年2月4日

1923年(大正12年)1月13日生まれる。
1946年(昭和21年)より小原安正門下となる。理論は斎藤太計雄、大宮誠、両氏に就く。
1949年(昭和24年)第1回全国ギターコンクールで第2位であった。
1950年 第2回ギターコンクールで第1位を獲得。
1951年 秋デビュー
人見ギター音楽研究所主宰。



1966年2月4日 札幌のがんセンター設立チャリティ演奏会の帰り、千歳発 全日空60便が羽田沖に墜落し事故死。
二重奏のコンビであった、三木理雄[Norio Miki]も事故死する。

大沢 絆 (一仁) Kizuna(Kazuhito) Oosawa

大沢絆
1960年代 大沢 絆

1925年-2014年 3月26日

1925年 東京都に生まれる。1946年 小原安正の門に入る。
1950年 第2回ギターコンクール、第2位入賞。
1951年、大沢ギター音楽研究所を創立。
1959年 東京ギターアカデミー教授となる。
1960年 スペイン政府文化省の招聘により渡西、コンポステーラ国際音楽講習会に参加、セゴビアの指導を受ける。
マドリード国立音楽院ギター科入学、主任教授レヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサおよびホセ・ツイスに師事。
1961年 再度・セゴビアのクラスに参加。
1962年度 マドリード国立音楽院ギター科の全課程を優秀の成績で卒業、日本人ギタリストとしてはじめて、ギター・プロフェソールのタイトルを与えられる。
1963年 東京、大阪、京都で帰国リサイタル。1965年 社団法人日本ギター連盟理事。1967年 文化放送のギター講座を担当。

http://os-guitar.com/?page_id=145

宮田俊一郎 Shunichirou Miyata

宮田俊一郎
宮田俊一郎 1960年代

宮田俊一郎 Shunichirou Miyata

  • 1925年-1976年 1月9日

  • 1925(大正14)年6月1日(東京都)に生れる。法政中学、中央音楽学校卒
    卒業後、マンドリンを宮田信義氏、比留間絹子氏、ギターを寿楽光雄氏、和声楽を津川主一氏、森乙氏、畑仲ニ氏に師事する。
  • 1946(昭和21)年3月 NHK東京放送管弦楽団にマンドリン、ギター奏者として入団。
  • 1975(昭和50)年3月まで、のど自慢や紅白歌合戦等、テレビ、ラジオ放送で活躍。

東京マンドリン宮田楽団運営、日本マンドリン連盟理事、全日本学生マンドリン連盟顧問を務める。
学生団体のご指導をはじめプレクトラム音楽の啓蒙、普及に幅広い活動を続ける。<p/>

[作曲]:「想い出のセレナーデ」、「武蔵野の秋」、「秋と朝と海と」、「平城山を主題とする幻想曲」 等があります。
[編曲]:クラシック・ポピュラーなど幅広く数千曲ある。
[著書]:「オデルマンドリン教本」
「初等カルカッシギター教本」
「マンドリン合奏名曲全集」
「古典ギター名曲全集」
カルカッシギター教本(初級)共著:宮田信義
カルカッシギター教本(全巻)共著:宮田信義
ギターの手びき
など数多く出版。
[CD]:「華麗なるマンドリンの調べ」などがある。

詳細は【宮田マンドリン記念館】でご覧下さい。

横尾幸弘 Yuquijiro Yokoh

横尾幸弘
横尾幸弘 1960年代

横尾幸弘 Yuquijiro Yokoh

  • 1925年(大正14年)~2009年12月(25日)

1925年(大正14年)~2009年12月(25日) 大分県日田市川原町の横尾紙店で7人兄弟の3男として生まれる。
1986年(昭和62年)より 現在の住まいに移る。妻と次女夫婦、2人の孫と生活。


■作曲 編曲

  • ◇国際版標準ギター教則本  (国際楽譜出版社)
  • ◇ギター名曲選  上巻・下巻  (国際楽譜出版社)
  • ◇ギターによる世界の旋律  (国際楽譜出版社)
  • ◇問答式ギター独習  (国際楽譜出版社)
  • ◇ギター101曲集  (共楽社)
  • ◇やさしいギター教本  (国際楽譜出版社)
  • ◇2重奏曲集  (国際楽譜出版社)
  • ◇3重奏・4重奏曲集  (国際楽譜出版社)
  • ◇ポピュラーギターの名曲集  (国際楽譜出版社)
  • ◇横尾幸弘ギター作品集  (現代ギター社)
  • ◇他

[※出典]横尾幸弘ホームページより

■ギターに魅せられて
『中学3年のとき京都の学校に行っていた兄がギターを抱えて帰ってきた。
それがギターとの 初めての出逢いとなった。
その美しい音に【魂を奪われた】という表現は僕にとって決して過言 ではありません。
以来ギターにかじりつき誰に教わることもなく今日まで音楽を続けてきましたが、 当時は戦争の最中、ギターに夢中の僕は親の勧める京城歯科医専(現在のソウル大学歯学部)に入学。
周囲に猛反対されながらもギターへの思いが強く遂に中退、そのころ(母に捧ぐるソナチネ)と題名を 決めて取りかかった曲を途上にして戦地(満州)に赴くことになりました。
死を覚悟していた戦争が 終わって我が家に戻った時、母は風呂敷にくるんだギターをそっと差し出してくれました。
あんなに反対していた母が大事をとって お寺にギターを疎開してくれていたのでした。
それは例えよう のない大きな喜びでした。
その後(母に捧ぐるソナチネ)を完成。24才でした。』

■あしあと・評論
◇1959年(昭和34年)アンドレス・セゴビア来日の際は国内のギタリスト らと共に友好を築いた。
セゴビア来日決定を機会に独学でスペイン語を始めた。

◇戦後日本のクラシックギター界ではじめてリサイタルを開く。

◇作曲活動にも力を注ぎ、中でも「さくら変奏曲」はその芸術的な完成度の高さ から世界的に有名になる。
ジョン・ウィリアムス、イエラン・シェルシェル 、アンジェル・ロメロ、エルネスト・ビデッティ などもアルバムに取り入れて いる。

◇作曲以外にもモーツアルトなど海外のクラシック音楽をギター曲に編曲し、楽 器の可能性を極限まで追い求める独創的な作品は曲集として数多く出版された実 績が多いことでも知られている。

◇「埴生の宿による主題と変奏」に用いられるダブルトレモロは横尾幸弘が開発 したもので、他に例がなく2本の弦にまたがる重音の響きの美しさは比類しない 。
◇横尾幸弘の作品に出てくる記号(√)ルートは彼が考案したものでこの記号に より幅広く高度な演奏が可能となった。
◇手書きの楽譜の美しさは、彼の持つ芸術性・感性をより深く感じさせる。
◇サインにあるトレードマークにはイニシャル“ Y・Y“ が隠れており、ギタ ーを持つ手が表現されている。
◇東京医科歯科大学、学習院大学、国際商科大学、立教大学 などでかつて講師 を務める。

[*出典]: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[*出典]:横尾幸弘 Yuquijiro Yocoh Web Site

近藤敏明 Toshiaki Kondo

近藤敏明
近藤敏明

1934年(昭和9年) 実兄近藤恒夫に就きギター音楽の研究を始める。
1943年(昭和18年) 近藤敏明ギター音楽研究所を開設。
1946年(昭和21年) 第1回ギター独奏会を開催する。
1949年(昭和24年) NHK全国放送を始め、以後数多くの放送を行い、リサイタルを開催する。
1964年(昭和49年) 渡欧パリ、マドリードでリサイタル開催。
 現在までに、門下生定期演奏会74回開催。
 長年にわたり、ギタリストの育成に努め、現在門下より数名の我が国一流の演奏家、および次代を担う数多くの新人を世に送っている。
1981年(昭和56年) 音楽生活45周年記念リサイタル開催。

ギター日本 第9号「ジョン・ウィリアムス特集号」より

近藤敏明(大阪)

ジョン・ウィリアムスが再び来日する。5 年前, 日本のギター界に残していった遺産の内容からいって,再度の訪日を最も大きな期待の中に待たれているのが,ジョン・ウィリアムスである。
未だ開花期とはいえないにしても,多分に豊壌な土と,それを開拓してゆく旺盛なバイタリティとを併せ持つギターの新興国日本として,ギターを学ぶ上に最も必要度の高い種々の要素を備えていたのが,ウィリアムスの演奏であったと思う。
一層の成熟が予想され得る現在,最も模範的な演奏として,我夕の要望と期待に応えてくれるものと信じている。
前回には,すばらしいテクニックで端麗そのものの音楽が示されたが,ギターでこれ程音楽の純粋な美しさを追求した演奏を聴くのは初めてであった。そして何といっても注目の的となったのは,そのテクニックであり,それは如何に困難な箇処でも,決して崩れない完全無欠なものとして,正にギターのテクニックのお手本を見せられた様であった。
しかしそのテクニックを決してひけらかすことなく,ぁ<迄も音楽表現への奉仕として駆使されていたのはミュジシャンとして,極めて優れた資性に恵まれている事を物語っていた。
楽器はフレタの由であったが,柔か味のある澄んだトーンが,豊かに,爽やかに堀いた。それは師セゴビアの様な豊麗な官能性はないが,知的な感覚性をもっていた。
真近'で聴いても,いささかも雑音のない美しいものであり,感情の高まりを,音質が毀れても強くタッチして表そうとする奏者とは,好対照である。
誇張を排し, ロマン的俗臭等少しもない,シンプルな,冷徹とさえ思える演奏内容。それは多分に古典的な様式美しかし賞讃と共に,又種々の点で批判もあった様である。
結果的には,評論家の間では,未完の大器として評価された様だが,それは若さがもたらす,みずみずしさの反面,包容力に不足する,随って古典にはよいが,民族的なもの,スペイン物において満たないものがある,といった点であり,又パッションが無い,感動に乏しいともいわれた。
ギターの限界内に於いて奏かれる音楽は,一面迫力に欠ける憾みがあり,幾分説得ガの弱さとなって聴衆を強く惹きつけない結果となって表れる。いいかえれば,自分自身が燃焼しきれないでいる、といえるのかもしれない。
そこに聴き手は,あるもどかしさを感じてしまうのである。

正直にいって私はあの演奏直後,ある感動に浸っていた。
それは前述の如く完壁の技術による。
それ迄に聴いたことのない音楽としての純粋な美しさにあった。
そして5年たった現在も,可成り印象は薄らいだとはいえ,演奏の本質,よさというものは心の中に留っている。
しかしウィリアムスの後に来日した,ギリア・ブリーム,ディアスを聴くに及んで,ウィリアムスの演奏に対する考え方に少し変化を来たしてきたのも事実である。
ウィリアムス程の技術の冴えはみられなかったにしろ,ギリアの聴き手の心に,そくそくとして迫る,素朴で,大らかで,豊かな演奏内容は,誠にユニークであり,又優れた技術が音楽に直結したアーチスト,ブリームの人間味溢るる名演,そしてウィリアムスとは又違ったテクニシァンディアスの,特に民族音楽への快演,等を聴いて,ウィリアムスに,もっともっと求めたくなって来たのである。

それはウィリアムスに,これらの演奏家のもつ諸要素を加えて欲しいというよりは,ウィリアムス独自の音楽的発展を望みたいという事である。
セゴビアの様な演奏上のロマン主義的なものでなく,若い知性派ギタリストの代表としての,新しいギター音楽への展開が望まれる。そこには,もっと自己主張が強くあって欲しい。
一層の音楽上の深い堀下げが,人生体験を通して,感動を呼ぶ音楽性豊かな演奏えと成長していて欲しい。
演奏は人なり,とよくいわれる。演奏芸術こそ,その人の教養,人柄を端的に表すものであり,良い人柄と見受けられるウィリアムスの5 年間の成果を聴きたいものである。
技術は一層磨かれて,第一人者的なテクニックが示されるであろう。

ギターを学ぶ若い人々は,そのすばらしい技術が,どの様なギターの持ち方,左右指の押絃,運指,タッチの方法から生れたかを,よく見究められる必要があると思う。
一言でいって,全てに無理のない合理性の下に,きたえ上げられたテクニックなのである。
折目正しい気品ある演奏スタイル,両手の楽な構え,それは,フォームの大切さを教えている様である。

左手押絃は,低音絃,高音絃によって,多少手首の出入りがあるものだが, ウィリアムスには,殆どこれが見られなかった。
又右手は,余分な動きを避け,小さな動きでアボヤンド・アルアイレを自在に用いて,豊麗なトーがン奏き出される。
フォーム以外としても,淀みのないリズム,適切なフレージング,曲の終止のうま味等参考とすべき点が多い。

特に日本のギタリストに欠けたものとして,様式感をもつと共に,その中でのアクセントの問題があり,これは西欧の音楽を表す上に於いて,極めて大切な研究課題として残されている。

今回のプログラムで,特に期待されるのは,初めて聴くものとしては,何といっても, 「アランフェス協奏曲」だと思う。
アランフェスは, 1956年15オの時に演奏しているという事は,相当長期間,奏き続けついて,演奏者として, レパートリー中,最も安定した曲の一つと考えられる。
レコードに聴くウィリアムスの演奏は,録音,オーケストラに難があり,又曲の表し方が少し大づかみで,曲のもつ情趣を十分味わえない憾みがあるが,演奏者の思考,感情の推移が,現在, どの様に演奏の上に表れるかが楽しみ である。
芸術家は,その度その度が創造であり,それ故に考え,歓び,苦悩し続けている。
再演ものとしてのきき物に「シャコンヌ」(バッハ)「主題と変奏」(ソル)がある。
シャコンヌは,前回は幾分控え目な表現で,持前の気品と優しさで奏かれていたが,しかしそれは勿論,単なる甘さと優しさではなく,知性の裏づけと,強い意志に支えられたウィリアムス芸術の特性を感じさせるものであった。
しかし今一つ聴衆に,アピールしないままに終ったのも事実であった。
この厖大な独奏曲は,完璧なメカニズム,美しい古典へのイデーだけでは,感動的な演奏は生れてこない。
それは演奏者の全人間的なものが,演奏の上に表れてくるからである。人間としての生長が,今回の演奏に何をプラスするかが,聴きどころである。

「主題と変奏」の前回に於ける美しさは,今も忘れられない。本曲に於いては,来日ギタリストの中でも,最も好ましいものであった。
若い奏者らしい,端的な解釈,表現の下に,あまりに,すっきりと奏かれた事による喰い足りなさは幾分認められたが,曲と演奏者のパーソナリティの一致は,ギターでひかれる無上の美しさとなって聴き手を魅了した。
内容に肉付きが増したと考えられる今回に,本曲の真に模範的な演奏を望みたい。
その他前回にも, ドッジソンその他の現代曲がひかれたが,演奏者の鋭い音楽的感性,稀有のメカニズムから発散される新鮮な感覚に,ギターの現代曲のもつ程よいモダニズムヘの適合がみられ,優れた演奏であったと思う。
今回もロボス, ドッジソン,トゥリナがあるが,期待したい。

玖島隆明 Takaaki Kushima

玖島隆明
玖島隆明 1960年代

1926年(大正15年)1月30日生(広島市)
中央大学経済学部卒
玖島ギター室内合奏団主催
ギターの友新人音楽賞選考委員
著書:「クラシックギター教本」他がある。

小原二郎 Jiro Obara

小原二郎
小原二郎

小原二郎[Jiro Obara](1929年-2015年)

    1927年(昭和2年)3月12日生(東京都) 小原安正夫に師事。



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