相馬千里氏第1回リサイタル開催
- 1935年(昭和10年)11月 東京高等音楽院大塚分教場ギター選科入学
洒井富士夫氏に就きターレガ教程の下にソル、コスト、アグアド、ターレガ、セゴヴィア等を学ぶ。
側ら作曲とビアノを斎藤太計雄氏に師事。
- 1938年(昭和13年)12月2日 アカデミア・ギタラ・サカイ 第1回に出演。
優れた技巧と美しいタッチは注目されて居る。
二重奏には佐籐喜一郎氏が賛助出演する本誌に相馬千里氏を挿画となした。
斎藤太計雄氏(作曲家)此程ワインガルトナー賞に「祭典舞曲」(大編成の管弦楽)を提出して入賞した。
多数のギター曲が本誌に依つて紹介されて居る如く、ギター音楽に対して特に深い関心を示して居る。
尚同氏は仏教に帰依、天益僧侶としての信仰生活を持つて居り、法名を新口円定師と呼ばれる尚新作ギター曲「第四ユーモレスク」を相馬千里氏に贈り、今回のリサイタルに発表される。
[*]digitalguktararchive/1939-74-Armonia
- 1939年4月27日 明治生命講堂(東京)にリサイタルを開く。
digitalguitararchive/1939-74-Armonia.pdf
1941年「日本ギター音楽について:武井守成 」氏の論評
昨年春の「アルモニア」誌上に相馬千里氏は次の如く述べた。ギター曲に関する限り現在迄の邦人作品は過渡期的なるものの範囲を出ていないと云へる。
多くは所謂デイレッタンティな好事的趣味的形成物でしかあり得ない。
而しこの中にあって良心的にして薀蓄ある少数の作品は見逃せない。
これら価値あるものは大いに尊重しなければ成らないである。
しかし今後斯界は今迄殆んど未開拓なもう―つの面に目せねばならない。
それは楽壇の専門的作曲家畑の作家へ働きかけなければならないことである。
現在の状態では早急には必要でないにしても、我々の究極の目的(即ち真の日本化)を考える時、時代と民族性の感覚性に最も豊富であり鋭敏なる作曲家を必要とする。
ともすれば特異のマンネリズムに陥入り易い此の楽器に、細部のエフェクト等を度外視した立場からの作曲が是非必要なのである。
さもなくばギターの歴史上の各時代は常に一般音楽史のそれと、ある間隔を置いて永久に後れてゆく運命をもたなければならないのである。
そして又西班牙(スペイン)系のギター音楽のレパートリーがテデスコ、ポンセ等によって清新なる動きをみせていることを注目すべきだと附加えている。
此の相馬氏の所論は正しく且つ、これこそ注目すべき示唆であると云える。
邦人作品がデイレッタンティな好事的趣味的な域を出ていないのではないかとの疑惑も正に単なる疑惑ではない。
特殊なマンネリズムに陥いり易い此の楽器に正常なる音楽の立場から作られる曲を要求するのは崇高なる観念であり慾求である。
そして此所論の骨子をなす「専門的作曲家へ働きかけるべきである」との高遠なる理想に到つては正に瞠目すべき課題を斯楽に投じたものと云えよう。
何故ならば此の提案こそ、実に彼の地にあって,屡々(しばしば)論ぜられ、而も今日に到るまで遂に成果を見得ない大問題に外ならないからである。
改めて言う迄もなくギターは其の機構上及び演奏上の特異性が、作曲家の何人にも直ちにその領域に入ることを阻んでいる。
「ギター音楽への作曲は此楽器を手にするもののみに許される」とは斯楽への嘆声でもあれば讃辞でもある。
事実、ギター音楽の極盛期として知られた18世紀中期より19世紀に亘る間に於てすら、名ある作曲家の一人として注目すべき作品を残しては居ない。
シューベルトの如き、ベルリオーズの如きギターを愛する事、人後におちず自ら此の楽器を奏でた大作家が、而もギターの為の作品を残さなかった事実は、前述の言葉を裏書きするものである。
ファリアは自身ギターを奏すると言われるが(真偽は知らない)彼の「デビュッシーの墓に棒ぐる」有名なHomenaje
はギター曲として害かれたには相違ないが、リヨベットによって初めてギター曲としての生命をもった事実を見逃す事は出来ず、叉相馬氏も触れられたテデスコ、ボンセ等についても同様な点に疑いをはさむ余地があるやに聞いて居るのである。
之を要するに専門的作家に働きかける事は此の時代に於て最も望ましき事に違いないが、理想の如き成果を見る為には容易ならざる道程と條件とをもつように考えられる。
條件とは何であるか。
第一に其れに優れたる専門的作家が自らギターについての其の認誡(それは狸論だけではなお足りない)を深める事を要する。
第二には真に優れたる奏者(それは演奏技術の如きを遥かに超越した頭脳的奏者である事を要する)との協力を必要とする。
此二つの條件は極めて簡箪であるが而も容易に具顕し得るものでは斯じてないのである。
私の最望むところは、我邦が、大作家たるギタリストを誕生せしむる事にある。
一言にして言えば我邦かから、ソルを、ジュリアーニを、タルレガを世に出す事である。
これこそは我邦ギター界を其に世界的に且つ永遠の立場に置くものでなくて何であらう。
今日の我邦ギター界はなお揺藍期を脱してはいない。
単なる演奏技術に於てすら到底世界の第一線に踊り出す基礎的なものをもつては居ないのである。
然し多数のギタリスト中に何時の日にか、其に優れたる作家の現れ出づるのを期待するのは必すしも空想ではないと信するものであり、同時に専門的作家に少くともギターついての真の認識に対して注目を惹かしむる事は直接の成果を度外視しても、関節の効果を将来の日本ギター音楽に与えるものとして相馬氏の所説に賛意を表するものである。
演奏と理論に真摯なる研究を続けつつあると聞く相馬氏自身に到して、実は私の期待をつないで居るものである事を述べて置きたい。
digitalguitararchive/18-10-Study-of-Mandolin-and-Guitar.pdf/P.5-P.7