Itsukushima Perry

The "research era" of classical guitar music historyクラシックギター音楽史の「研究時代」

音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)は、明治12年[1879年]に設立された文部省の機関で、西洋音楽の導入と音楽教育の普及を目的としていました。
この機関は、主に学校教育における音楽の研究と実践を行い、唱歌や器楽教育の基盤を築きました。
一方、マンドリンは明治時代後期に日本に紹介され、特に学生や若者の間で人気を博しました。
音楽取調掛が直接マンドリンの普及に関与したという記録はありませんが、音楽教育の一環として西洋楽器の導入が進められた背景には、音楽取調掛の活動が大きな影響を与えたと考えられます。
つまり、音楽取調掛が西洋音楽の普及と教育に貢献したことが、間接的にマンドリンの受容と普及にも影響を与えたと言えるでしょう。
ギター音楽は、マンドリン合奏と共に育つて来たものであり、当時の多くのギター奏者も何等かのマンドリン合奏団に属している人たちだった。
その関係からギター独奏はごくまれにしか演奏されていなかった。
ギターを熱心に手にした人であるならばその独奏ががマンドリン合奏と離れた意義を持つている事を充分に知つて居る筈で あった。
クラシックギター音楽の『萌芽時代』大正年間(1912年-1926年)に於けるプレクトラム音楽は合奏全盛であった。


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小栗孝之 Takayuki Oguri

小栗孝之
小栗孝之

小栗孝之 Takayuki Oguri

  • 1909年-1944年

小栗孝之
本名:小栗 卓
1909年(明治42年)10月25日 静岡県三島町に生る。

静岡県浜松市に住む。
同市小中学校を経て、上京する。
法政大学予科より法学部に進みしも音楽のため、1年にして中退する。

ギターは郷里にて独学、児童楽劇団等を経営。
1936年(昭和11年) 再び上京し、3月より小倉俊氏にギターを学ぶ。
クルプ・デ・ターレガの会員。

その間、提琴家鈴木鎮一氏に表現法を修めた。
豊島区豊島洋楽塾のギター及び理論教授。自宅教授もなす。

1938年(昭和13年) ギター作曲コンクール選外推薦曲として「朝鮮風舞曲第1号:桔梗打鈴」受賞する。

朝鮮の民謡をテーマとして、それをハーモナイズしたと作者は書いている。 リヨべットのスペイン民謡に対する和声付きと似ているが、リヨベットの粋なスペイン民謡に対するギター的粉飾と異つて.幾つかの彼地の民謡をギター的に処理し、経過句とコーダを附して一編の白い哀愁をもたらそうと試みたものである。 リヨベットの方法の影響は相当見られるが、リヨベットの如き深い推敲がない。個々の着想は表情的であるけれども、一曲の詩的生命たる印象の統一を作るコンビネーションに多くの難点があると言えよう。 発表に際してはこの点に於いて改訂を加へねばならないと考へる。 経過部と結尾は殊に弱く的かれて居る。 又朝鮮舞曲としてのオリヂナリテイの表出も貧しい。非常に良き索材でありながら、多くはそれが内容と成り得なかったのを心措しく思ふ。審在且及作者と合議の上曲諮を痰表する豫定である。
小栗孝之氏(前号添付ギター曲作者)此頃多数のギター曲を作曲、アルモニアにそのコピイを寄せられた。

近くアルモニアより幾曲か出版する予定である。


[*参照]digitalguitararchive/1939-74-Armonia

酒井富士雄 Fujio Sakai

酒井富士雄
酒井富士雄

酒井富士雄 Fujio Sakai

  • 1909年-1978年

1909年[明治42年] 新潟生まれ
日本大学工学部に入学、病のため中退。
以後音楽を広く独習。

澤口氏の”仙台アルモニア”でギター部指導。
1936年11月14日 酒井富士夫独奏会 於:仙台斎藤報恩会館講堂(仙台ギター同好会主催)
1936年11月23日 酒井富士夫ギター独奏会 於:蠶絲(さんし:養蚕や生糸製造)会館
1940年春 
のち東京に移り、旧制東邦音楽学校(現音大)、日本音楽学校(現音高)でギター科と音楽歴史を担任。
リサイタル、放送、TVなど多く体験。


[出版]
・スペインギター教本 酒井富士夫 編著 全音楽譜出版社 ・世界百名曲集 酒井富士夫 編著 全音楽譜出版社 1949.3
・ギター伴奏による想い出の歌謠曲集 酒井富士夫 編著 全音楽譜出版社 1948.10
・ギター獨奏世界百名曲集 酒井富士夫 編著 全音楽譜出版社 1948.11
・ギター独奏・タンゴブルース曲集 酒井富士夫 編著 全音楽譜出版社 1948.7
・獨奏ギター名曲選集 酒井富士夫 編著 全音楽譜出版社 1948.3
・ギター独奏流行歌謠曲集 酒井富士夫 編著 全音楽譜出版社 1948.12
・六十世界名曲集 酒井富士夫 編著 全音楽譜出版社 1948.7
・懷しのフォスター名曲集 酒井冨士夫 編 ; 全音樂譜出版社編輯部 編著 全音楽譜出版社 1948.3
・ギター独奏流行歌謠曲集 酒井富士夫 編著 全音楽譜出版社 1948.10
・演奏会用ギターラ曲集 第1輯 (器楽篇) 酒井富士夫 編 全音楽譜出版社 昭和17

酒井富士雄
Academia Guitarra Sacai

遇話:酒井富士夫
欣しき(よろこぶべきこと)は1929年の秋であった。それは我が国ギター界に劃然(かくぜん:はっきりしているさま)たる1エポックを成した俊才セゴヴィア来朝の時であったから。
以後今年迄8年間の斯界は今更喋喋(ちょうちょう)する迄も無く完全に生れ変ったのである。
貴き先覚者の献身的奉仕を感謝しつつ我々はフエレール・プラッテン・アルバ等よりトローバ・トウリーナ・ボンセを知りアルベーニス・グラナドスに親しみ更に聖者ターレガの偉大な精神に、より深く関われ得るに至った事は只幸と言う丈である。
ギター音楽がいわゆる正統を誇る他の音楽に対し堂々その価値に於て優れた点を主張し得る立脚地を今ぞ獲得したのである
。 然し乍、音楽の時間的経違は、それを民族の盛衰等のそれと同様に観得る事実の前には、僅々8年間の歳月の如き、大海の一泡的存在にしか過ぎない。
之の意味からしても現時降盛と視得る本邦ギター界も未だ第一歩の所と言つても過言でないし、又事実幾多の未建設の地はまだまだ残されて居るのである。
幸にも現在最も追く指導的役割を持つ文献的方面に於ては、我々は世界に誇るべきアルモニアの澤口氏の畢世(ひつせい:一生涯)の事業に安緒と感謝の念を捧げて尚、将来の輝しき発展を期待すればよいのであるし、又よき音楽の為の楽器製作方面も今更喋々を要せぬ幾多名匠を持つて居る。
斯くして演奏方面こそ最も現時厳正に検討されねばならぬのではあるまいか。
近来各地に於ける斯界は実に活発な動きを示して居る。
演奏回数に於ても曲目に於ても正に堂々彼地のプロにも比肩する外観を備へて居り、現代曲等に於ては寧ろより以上見出し得る。この現象は果して本邦斯界のレベルを海外へ誇示するバロメーターたり得る事であらうか。
私は之で嗚呼(おこ)がましくそれを批判し結論する非礼は敢て為し得ない。
それよりも今自分で抱いて居る私見を別に記して見たい。
曲目編成の組み方にそれ自身1つの意義を持ち、奏者の主張も表れて居るべき物で無ければならない。
曲目編成は飽く迄大切な事には違いないが、中にはそれより以上重大な事を後廻しにされて居る事実がありはしないか先づ私はその前に実際演奏効果をより重大に考えたい。音量、音質の問題等を。
人々は度々、此の問題で現在の本邦斯界の最大欠陥がここに存する事実に接して居ないだろうか。
一例を音量に取れば、ギター音楽は聴取困難な物と誤解さるぺき事質は残念乍ら最も多く見得る。
甚だしきは、収容500名内外の講堂では当然、聴取難いと信じて居るギタリストすら見受けられるのである。
又特殊な目的以外にギターはマイクロホンを必要とするが如き憐れな楽器であろうか。
またギター音楽の優れたる存在理由の一つ、音に就いて再考三考を為す時、之にも亦、現在聴き得るギターの音に幾多の疑間が生じはせぬだらうか。
瞬間のタッチに生命を委ねるギター音楽に於て、音への熟慮はヴァイオリンのボーイング、ピアノのタッチ等の専門的研究より絶対に劣つてはならぬのである。
奏法の研究は実にギター音楽の生命を振る物である。
之無くしては萬巻の名練習曲も遂に空しい物とならう。
又奏法以外にても、音への熟考は我々ギタリストの最直大事ではあるまいか。
数百年間プジォール師の言ふ如く信仰にも似た気持ちで、人々の心を今迄捉えて来たギターの精紳は、げにも昔にあったのであるまいか。
音を無親してギター芸術、ギター研究はあり得ない。
彼の偉大なるセゴヴィアですらギター芸術には一学徒である。
謙護な研究生として我々は愛すべきギターをもつて幾百年前の故郷であった東洋に於て、再び輝かしく栄しめる事への責任を感ぜずには居られいのである。
ギター精神は音より!


1937-61-Armonia

縄田政次 Masaji Nawata

縄田政次
縄田政次

縄田政次 Masaji Nawata

  • 1909-没年不詳

[音楽歴史]
1909年 明治42年7月22日 神戸市に生まれる
1924年 大正13年 育英商業美術専門学校卒業
1926年 大正15年 マンドリンの独習を初む
1927年 昭和2年  古家貞二先生にマンドリン師事、併せてギターの独学
1934年 昭和9年  友人浅野秀次氏の好意にてマンドリン合奏団と教授所を開設、以後19年応召まで戦時中も演奏会と放送を続く
1944年 昭和19年 姫路地区に応召、栗栖部隊に配属、同部隊の吹奏楽隊の常任指揮者を拝命
1946年 昭和21年 終戦。除隊後合奏団結成と教授所を再開、マンドリンオーケストラとギター独奏の放送と演奏会を続く
1949年 昭和24年 教育ギター教興と同時に関西教育ギター教授会を設立
1950年 昭和25年 全国初めてのモデルスクールとして「生野小学校」のギター部設立に協力し、指導に当たる
1951年 昭和26年 ABC放送開設と同時に定期的にギター独奏の放送を続ける
1951年 昭和26年 関西人として初めての東京進出ギターの独奏を小原安正氏の主催で開催(Y.W.C.Aホール:ギタルラ社主催)
1955年 昭和34年 現在地に70名収容のスタジオ新築、ギターの教授・練習会を続ける、同年帝塚山学院マンドリンギター科講師となる
1956年 昭和31年 第11回独奏会開催(大阪美術館)
1956年 昭和31年 第20回定期演奏会 ナワタ・マンドリン・ギター研究所(大阪美術館)
1956年 昭和31年 第2回東京進出ギターリサイタルを永田哲夫氏主催で開催。バッハのシャコンヌを初演
1957年 昭和32年 優秀門下生達によりアカデミア・デ・ギタリタス・デ・ナワタを開設、毎年独奏会を続ける
1958年 昭和37年 5月28日 縄田マンドリンギター研究所の第3回ギター独奏会開催(大阪ガスビルホール)
1959年 昭和38年 学校法人ギター・スタジオを開設
1962年 昭和37年 世界最初の130名のギター大合奏を編成、全音ミュージックフェスティバルに出演
1964年 昭和39年 ソノルギター(安価な教育用ガットギター)の開発
1965年 昭和40年 ギターの改造研究を始める
1973年 昭和48年 世界最初のギター新構造完成、実用新案獲得、同年よりギターマンドリンの作曲に専念
1974年 昭和49年 全音楽譜出版社会長 島田貞二氏の依頼によりAT型バスパーによるブリランテギターを開発、現在に至る
1976年 昭和51年 ナワタ・ギターマンドリン教室を住吉区で開設


縄田政次
縄田政次

縄田政次 Masaji Nawata

[リサイタル]
第1回 昭和11年11月10日 岡島新聞舗ホール(岡島会館)
第2回 昭和21年11月15日 終戦直後 大阪文化会館
第3回 昭和24年9月22日  姫路市公会堂
第4回 昭和25年5月14日  京都市YMCA
第5回 昭和25年5月27日  大阪市大谷会館(現在の御堂会館)
第6回 昭和25年9月23日 福井県立図書館ホール
第7回 昭和26年5月10日 大阪市松坂屋ホール
第8回 昭和26年5月30日 東京進出第1回リサイタル
第9回 昭和26年11月20日 鯖江市公民館ホール
第10回 昭和27年5月10日 高松市千代田生命ホール
第11回 昭和31年10月21日 大阪市天王寺美術館ホール 第12回 昭和31年11月16日 東京進出第2回銀座山葉ホール
             (ギターによるバッハのシャコンヌ初演)
第13回 昭和38年10月16日 全国初のマンドリンとギターソロのワンマンリサイタル御堂会館
第14回 昭和44年5月28日 ギター・マンドリン生活40周年記念リサイタル御堂会館
第15回 昭和44年6月27日 娘の東京進出のための父娘ジョイントリサイタル第一生命ホール 
その他師門合同の会17回、および定期演奏会43回 開催

[*出典]株式会社全音楽譜出版社 日本旋律への郷愁「マンドリン独奏曲集」縄田政次 作曲



溝淵浩五郎 Kogoro Mizobuchi

溝淵浩五郎
溝淵浩五郎

1912年 - 1967年 (55歳)

  • 1937年1月5日 佐藤男爵家(佐藤篤)の新年会
    プレリュード(バッハ)/ スペイン小夜曲(マラッツ)/ スペイン舞曲第5番(グラナドス)/ 主題と変奏(モツアーニ)/ アルアンブラの思出(ターレガ)
  • 1937年6月1日 第一回リサイタルプログラム
    溝口浩五郎氏ギター獨奏会[東京帝国ホテル演奏場]
    1.アンダンチイーノ  ソル / ミヌエット(5) ソル / ミヌエット(6)ソル
    2.プレリュード  バッハ / クーランテ バッハ / メロデイー  ルービンシュタイン / 幻想曲  斉籐太計雄
    3.プレリュート ターレガ / ゆりかごの唄  ターレガ / 練習曲(蝶)/ パバーナ ターレガ /スペイン舞曲(No.5) /スペイン風小夜曲  マラッツ/
    アラピャ風狂想曲  ターレガ / アルアンプラの想出 ターレガ
    (6月3日にも大阪ガスビル公演場にて別演目で実施している)

『溝淵浩五郎氏の第一回ギター獨奏合(帝國ホテル)は別記の如く6月1日開かれて盛会であった。
楽器は宮本器と峯澤器を使用、続いて6月3日大阪に開く。
祐伯二郎氏、渡邊寿氏賛助出演、使用楽器は峯澤器、小林博氏に依つて使用楽器の紹介があった。
此のリサイタルでの吾ギター音楽の水準を高めたと評さる。』

  • 1937年6月27日 早大政経学部学友会大会第3回 ギター独奏
    スペイン風小夜曲  マラッツ/斎藤太計雄 溝淵氏に捧ぐる曲/グラナドス スペイン舞曲第5番/アルアンプラの想出 ターレガ

  • 1937年8月20日 溝淵浩五郎氏 来仙し、澤口氏を訪問。
    仙台溝淵会が発足(主催:坂口政雄氏)
    HK放送 [*仙台HK放送:NHK] ギター独奏を放送する。
  • 1938年10月18日  溝口浩五郎第三回ギター独奏会 明治生命講堂
    1.(イ)プレリュードパッハ(口)アルマンド バッハ (ハ) 無言歌メンデJLスゾーン (ニ)ロシアの夢 カルカッシ
    2.(イ)幻想曲 斎藤太計雄(口)瞑想曲 斎藤太計雄 (ハ) 春の唄 斎藤太計雄(ニ)別れの曲(ショバン).籐村観・溝淵共編
    3.(イ)プレリュード七番(ショパン) (ロ)トロメライ(シューマン)(ハ)プレリュード11番(ターレガ)(ニ)タンゴ(ターレガ)
    4.(イ)プレリュード5番(口)アルボラーダ(ハ)ムーア風舞曲(ターレガ)(ニ)アルアンプラの想出(ターレガ)

[*参照]:digitalguitararchive/1937-62-Armonia P.69-P.70/1937-63-Almonia/1937-64-Almonia/1938-72-Armonia

溝淵浩五郎
1938年頃 溝淵浩五郎

ギタリストの途:溝淵浩五郎
今迄日本にギター研究家、理論家、愛好家等々は相当以前より在ったのですが、甚だ残念乍らギタリストが殆んど存在して居りません様うでした。
その理由は、小生浅学を顧みず断定するに、今迄のギタリストは即ち「ギタリストの途」を忘れて居たのではないかと思います。
世の中は益々「分業時代」となって来て居ます。
未だギタリストとして実に恥入る可き未熟なテクニックしか獲得せぬ時代に、名誉心、金欲等にそそのかされ、ややもすれば作曲とかギターの理論的研究(実際的研究とは異る意味也)に移り、その結果「アブハチトラズ」となり実に憐れな末路を辿るのであります。
ーロにギターとは申せ、その内容は実に洋々たるものであり、人間一個人の力で、内容全体を把握する事は絶体不可能であります。
故にギタリストはギター演奏、並びにその教授にのみ力を注ぐ事に一意尊信 努力せねばならぬと思います。
そしてギタリストとして相当な腕前に逹した暁に、初めて作曲及び前述の理論的研究等に入らねばならぬのです。

今申しました「相当な腕前」とは、如何程のものを指すか?との質問がある事と存じますが、只今の小生の説では、少なくとも「アルアンプラの想出、スペイン舞曲五番.グラナダ、スペイン風小夜曲、バッハ作曲、セゴビヤ編曲のプレリュード、クーランテ」等々々程度の曲が弾けて、而も識者をしてその芸術的感銘に悦惚たらしめ得る程度を申すのです。
以上述ぺました曲が弾けぬ内はギタリストなる言葉は使えぬと思います。
又弾けずして他人の演奏の欠点を申す様なインチキギタリストが沢山ありますが、その様な人は問題になりません。
(言うは易くして行うは難し)故にギタリストは演奏に専心し、作曲家は作曲に専心する様努めねばなりません。

溝淵浩五郎
1960年代 溝淵浩五郎

又ギタリストと申しましても、現代日本の如く中年よりギターに志した演奏家と、西洋のギタリストの如き少年又は幼年時代よりギターに志したギタリストは、自然その進む可き途は異らねばなりません。
即ち少年時代より学んだギタリストは勿論演奏範囲が広いわけで、又技巧的に申しましても優れた人が多いでしょうと思います。
故に技巧家を志す事も出来ますが、残念乍ら我々中年よりギターを学んだだギタリストは、右の様な方面に進めばそれこそ憐れな末路を辿らねばならなくなると思います。
即ち現代日本のギタリストは「特長を持たねばならぬ」と言う事を重に考えねばなりません。
一例を挙げれば「甘い施律を歌わすのが上手だ」叉は「クラシックが得意だ」・「南欧的曲が特意」・「北欧的曲が得意」「トレモロの曲が得意」等々、又はその人独特の美しい情操及び独特無比なる妙音。
と云った様な他の人の追従を許さぬ点を持つ様に努力せねばならぬと思います。
やたらに曲目ばかり増やす事や、セゴビヤが吹込んで居るから是非弾こう、等考えるのは止めて欲しいのです。
そして最少限度として50曲か60曲の相当立派な独奏曲を如何なる時に於いても演奏し得る様にせねばなりません。
さて、右の様な「ギタリストとして恥ずかしくない要素」を獲得したその後は、悠々自分の後輩の事、将来日本ギター界の事を心配せねばなりません。
すなわち、教則本の良きものを作るとか、製作家を指導並びに鞭逹して良き楽器の出来る様にする事、及び作曲家と協力して日本化した名曲を作る事、ギター誌友雑誌の発達を計る事等々に努力す可きです。
演奏家の指導及び鞭撻を受けずして製作した楽器は決して名器とはなりません。
又演奏家と相談せぬ様な製作家は名エにもなれぬと思います。
最後に申したい事は作曲家も勿論演奏家と相談する必要があると思います。
故にギタリストは中々責任重大です。

製作家を指導し作曲家と相談せねばならぬのですから。
そして将来はギターが日本の三味線の如く津々浦々迄も普及し、ギターの本場のスペインをリードする様に致しましょう。 例え50年かかろうと100年かかろうと。
それからもう少し書かせて戴きたいのは皆様の中でギタリストを志す方は一日も早く名器を賭入される様おす4すめ致します。
決して宣伝ではありませんが、峯澤泰三師、宮本金八師の名器を御推め致します。
公かな舶来品より数段優れて居ります。

文章が下手な為、さぞお読み憎かった事と存じます。
最後に皆様方の御健康を祈ります。

1937-62-Armonia P.69-P.70

溝淵浩五郎
1960年代 溝淵浩五郎

東京古典ギター協会(溝淵浩五郎先生)
今月の教室訪間は、まず溝渕浩五郎先生のお宅を訪問することにした。~<前略>~
溝渕先生は、佐々木政夫、小倉俊両先生に師事され、昭和十二年頃から、第一線ギタリストとして活躍して来られた方で、現在ステージで活躍して居られるギタリストの中では最も長いステージ経験をもって居られる方の一人で、はじめてリサイタルを開かれたのは昭和12年(1937年)とのことである。
戦前はギター専門にやって居られたが、戦争中から中学の教壇に立たれる様になり、現在も国語の先生をして居られ、その博識の程はギター界でも知る人が多い所である。
愛器シュタウフエルとガルシャを手にその美しい音色をきかせて下さったが、さすがに古銘器の響きはこれこそギターの本当の音だと惑じさせるに十分であった。
先生のお話によると、銘器は決して無駄には嗚らないとのことである。
先生は、アニドの来朝(1954年)以来、そのタッチにヒントを得て、奏法の研究をされ、現在の音を得られたとのことであるが、この古銘器も又、先生の研究を助ける大きな力となったことであろうと思う。

[ギターの友:玖島たづこ]


digitalarchive/1959-41-ギターの友/P.19

[ 出版 ]
カルカッシ・ギター教則本/タルレガ ギター教則本/カルカッシ25のエチュード

田村敏夫 Toshio Tamura

田村敏夫
田村敏夫 1911年-??

1911年(明治44年)1月1日生(名古屋市)

寿楽光雄 Mitsuo Juraku

寿楽光雄
寿楽光雄

寿楽光雄

生誕:19??年(明治??年)(??市)

1942年11月10日 寿楽光雄 第一回ギター独奏会
 於:東京産業組合中央会講堂
・プレリウド・ガボット(パツハ)
・プレリュード、アルマンド、クーラント(パッハ)
・主題と変奏(モツアルト「ソル」)
・華麗なる練習曲(ターレガ)
・ムーア風舞曲(同)
・アルアムプラの想出(同)
・演奏会用ホタ(同)
・歌謡詞(メンデルスゾーン)
・スペイン舞曲五番(グラナドス)
・アンダルーサ(フォルテ)
・セヴィリア(アルベニス)

[*出典]digitalguitararchive/1942-03-no.2-Mandolin-Guitar-Reserch
武井守成「雑感」/ 寿楽光雄氏の独奏会

日本音楽学校ギター科出身の逸材として小原安正氏の薫陶をうけた寿楽氏が第一回リサイタルを昨年11月18日 夜産業組合講堂で開いた。
コンサートに臨む事極めて稀な私にとって此リサイタルが寿楽氏の演奏に接する最初のものであるのは言うまでもない。
氏がすでに屡々(しばしば)その演奏を公開した事は、夙に(つとに:早くから)知つているが、しかし此の第一回のリサイタルは言わば氏の本当の巣立ちであり、それだけに注目に値する。

然し私は当夜の演奏を持って直ちに氏の将来をを卜(ぼく:占う)する事は避けたいと考える。

堂々たる曲目を提げて、正々の陣を進めた事は若き奏者として其の武者振り(むしゃぶり:雄々しい姿)に同感を覚えるけれども忌憚なく言えば氏はあらゆる点に未完成品たる事を示して居り、向後の大成には撓(たわ)まざる努力を必要とするであろう。

私は氏の頭脳と演奏上の素質とに期待をかけるが、唯氏が一朝にして大家になり了(りょう:終了)せざる事を希望して止まない。
我邦ギター界は大家に非ざる大家をもち過ぎて居る。
大家は一朝にして成るものではない筈であるのに。

[1941年11月18日]

『ギタリストの手帳』より 寿楽光雄「檄」
音楽表現の手段としてヴァイオリンやピアノが選ばれる。そして,ギターラを選んだ場合が私逹である。
ヴァイオリンやビアノが楽器であるならギターラもまた同じ楽器である。
然るにギタリストは、内に熱火の情熱を抱きつつ、外に羞恥(しゅうち)の音楽であると自ら卑下(ひげ)するのである。
(これはギタリストのすべてがそうであるとは言われないとしても、肯定されねばならない事である)之は不可解である。
私逹は何故にかくまで卑下しなければならないのか------
ヴァイオリンの持続音の微妙さやビアノの荘重さは無<とも、ギターラには豊穣なる音色と比類なき繊細さがある。
ペートーヴェンとベルリオーズはギターラを称(しょう:讃える)して小なる管絃楽なりと喝破し、又、スペイン近代音楽の巨匠アルベニスはターレガの演奏を聴き讃嘆惜(お)く能わざりしと言う。
ファリスは名曲ドヴィッシイを悼(いた)む「献呈」を物し、ギターラの4度調律に優れた現代的性格を確認する。
かくしてギターラの優秀性は現に立証され、今や国際的な地位に迄、躍進せんとしているのである。
此の優れたる楽器は我々の生命であった。僅か六條の弦から無限の律動と、旋律と、和音があふれ、豊饒な芸術的神秘が感得される。
偉大なる芸術家リヨベットを想へ、セゴヴィアを聴け、彼等はすべてギタリストであった。 我々もまたギターの道を行くならばギタリストたる誇りを持とう額を上げよう羞恥等あるぺき筈がない。
此の光輝あるギターラの為に生涯を捧げようではないか。

1942-01-no1-Mandolin-Guitar-Research.pdf



随筆[進駐軍での演奏から]:寿楽光雄
現在まで私は進駐軍のステージで弾いてきたのであるが、
それについての 、これは取り止めも無い記述である。
先づ此の仕事は前々からの計算であったのであるが、ギター音楽に対する一般(わけても芸能会社等)の認識が皆無に迄近く、却々(なかなか)月4,5回の機会を持つのみであったのである。
彼らは我々の独奏をピックを用いたジャズギターであると思い、ガットを張ったスペインギターであると説明すれば、ただ一途に地味であるとの理由を持って、好意を示さなかったのである。
幸いにしてこの仕事も最近暫く軌道に乗り、マネージャーも幾分認識を改めたかに思われるのであるが、このような面からも我々は堂々と清のギター音楽を主張して無意味ではないと思うのである。
楽界から忘れられた狭小な殻の中に、かろうじて呼吸するギターであってならないならば、あらゆる面から我々の音楽は積極的に強調されねばならぬと信ずるのである。
もちろん、これには我々の血みどろの刻苦、精励が平行しなければならない。

余談となったのであるが、米兵にしても英ギターは既に彼らののものである。
概してピック奏法であるが、真新しいギプソン等で無雄作に弾じ、唄で、充分に榮しむのである。
之に比して指頭奏者の蓼蓼(たでたで:苦みがあるにもかかわらず、それを好んで食べる)は残念であるが、時としてこの少ない中から耳新たな音や奏法を発見するのは素晴らしい。
いずれにしろギターを愛する彼らにとって、ガットの音は限りない魅惑であるのである。

進駐軍での演奏は要するに「仕事」であり、種々の苦しみがある。
例えばレパートリーであるが、常に外的な条件が之を制約するのである。ホールの広狭、反馨の良否、ステージとフロア、聴衆の種類、態度、マイクロフォンを使用る、しない等々、其の雰囲気から曲目の変更は維多となるのである。
程度の低下は「エスパニヤ・カーニ」を弾かねばならず、マラゲニヤ・グアヒラ、プレリアス等も弾く、多分にアメリカ化されたリムスキー・コルサコフの「熊蜂の飛行」など。
勿論私は如何なる昔榮に対しても音楽としての生命を否定するものではなく、フラメンコにしてもスイングのリズムにしても一応の関心を寄せるものではあるが、然しこれほ私の本領ではなく、この様な時こそ「仕事」の辛ざを思い、末熟の哀しみにいたく自己を顧みずには居られないのである。

時、所、上京のいかんを問わず、常に真実なる事故を赤裸々に主張し聴衆の納得を得る境地は、実に渺(びょう:果てしなく広いさま)たる彼方である。

勿論この如きは、私の拙い(つたない)演奏においてはまことに珍しい事である。大物ピアニストや、声楽家等と同行するのであるが、彼らに互してギターの栄光を燦然たらしむるべく、あまりに非力な事故にムチ打たねばならない。
然し、量的なコンサート形式のステージは愉快な一時である。概ね2、3曲の受持ちであり今度は良い意味で選曲に弱る。
大概、スペイン物は喜ばれる、特にターレガの「ホ夕」「アルアムプラの想い出」、「華麗なる練習曲」、アルベニスの「セヴィリヤ」、「グラナダ」、グラナドスの「舞曲第五」等ギター1個でリサイタルの様な事は少いのであるが、この様な時こそギタリストとしての責任と、また日本人としての誇りとを強く感ずるプロはリサイタルと全く同一で良く、バッハもソルもメンデルスゾーンも組入れ、又トリーナ、トロバ、テデスコも付加される。

我々の音楽はG.I.よりもオフィサーにより深い理解があるともいわれるが、必ずしもそうとは限らない。

アメリカはスイングの国であると共に、より以上に古典を愛する国である。
彼等の喜ぴほ卒直に表現される、良いものは良く悪いものは悪い。
彼等の拍手は真実でありあふれ漏れた純粋なる感激である。
そして之に喝采と口苗と足踏みが加わるのが進駐軍のステージでである。
しかも敦養ある高度な聴衆からは、真面目な拍手と喝采のみが強調されるのであるが・・・・。
司会者は聴衆を制しながら丁重の承諾を求める。
終了後、控室を訪れて握手を求めるオフィサー。アメリカヘ来た時には・・・とアドレスをくれるG.I.これらはギターに対する真実なる尊敬でもあろうか・・・。
勿論此の如きは私の拙い演奏に於ては誠に珍らしい事である。
大物ピアニストや声楽家等とするのであるが、彼らに伍してギターの栄光を燦然(さんぜん)たらしむるべく、あまりに非力な自己にムチ打たねばならない。
然し量的な黙迫には何等の脅威をも感ずる事はない。要はギターが、躍動する生命感に鳴つて居り、豊な晋築として流れてゐるや、否や、と言ふ事であらう。

セゴヴィアは、カーネギーホールでボンセの『南国の協奏曲」と、テデスコの「協奏曲二長調」を奏いて居るとの事であるが全く驚異であり、深く考えさせられるのである。
以上、大罷を断片的ながら記した積りであるが要を得ないのが恨みである。
ここに又思うには、自己の音楽の貧困とテクニックの不足であり、そして、まだ多分にギターが温室的であるという事である。

相馬千里 Chisato Soma

相馬千里
相馬千里

相馬千里氏第1回リサイタル開催

  • 1918年(大正7年)1月29日東京に生れ
  • 1935年(昭和10年)11月 東京高等音楽院大塚分教場ギター選科入学
    洒井富士夫氏に就きターレガ教程の下にソル、コスト、アグアド、ターレガ、セゴヴィア等を学ぶ。
    側ら作曲とビアノを斎藤太計雄氏に師事。
  • 1938年(昭和13年)12月2日 アカデミア・ギタラ・サカイ 第1回に出演。
    優れた技巧と美しいタッチは注目されて居る。
    二重奏には佐籐喜一郎氏が賛助出演する本誌に相馬千里氏を挿画となした。

斎藤太計雄氏(作曲家)此程ワインガルトナー賞に「祭典舞曲」(大編成の管弦楽)を提出して入賞した。
多数のギター曲が本誌に依つて紹介されて居る如く、ギター音楽に対して特に深い関心を示して居る。
尚同氏は仏教に帰依、天益僧侶としての信仰生活を持つて居り、法名を新口円定師と呼ばれる尚新作ギター曲「第四ユーモレスク」を相馬千里氏に贈り、今回のリサイタルに発表される。
[*]digitalguktararchive/1939-74-Armonia


  • 1939年4月27日 明治生命講堂(東京)にリサイタルを開く。

digitalguitararchive/1939-74-Armonia.pdf

1941年「日本ギター音楽について:武井守成 」氏の論評
昨年春の「アルモニア」誌上に相馬千里氏は次の如く述べた。ギター曲に関する限り現在迄の邦人作品は過渡期的なるものの範囲を出ていないと云へる。
多くは所謂デイレッタンティな好事的趣味的形成物でしかあり得ない。
而しこの中にあって良心的にして薀蓄ある少数の作品は見逃せない。
これら価値あるものは大いに尊重しなければ成らないである。

しかし今後斯界は今迄殆んど未開拓なもう―つの面に目せねばならない。
それは楽壇の専門的作曲家畑の作家へ働きかけなければならないことである。
現在の状態では早急には必要でないにしても、我々の究極の目的(即ち真の日本化)を考える時、時代と民族性の感覚性に最も豊富であり鋭敏なる作曲家を必要とする。
ともすれば特異のマンネリズムに陥入り易い此の楽器に、細部のエフェクト等を度外視した立場からの作曲が是非必要なのである。
さもなくばギターの歴史上の各時代は常に一般音楽史のそれと、ある間隔を置いて永久に後れてゆく運命をもたなければならないのである。

そして又西班牙(スペイン)系のギター音楽のレパートリーがテデスコ、ポンセ等によって清新なる動きをみせていることを注目すべきだと附加えている。
此の相馬氏の所論は正しく且つ、これこそ注目すべき示唆であると云える。

邦人作品がデイレッタンティな好事的趣味的な域を出ていないのではないかとの疑惑も正に単なる疑惑ではない。
特殊なマンネリズムに陥いり易い此の楽器に正常なる音楽の立場から作られる曲を要求するのは崇高なる観念であり慾求である。
そして此所論の骨子をなす「専門的作曲家へ働きかけるべきである」との高遠なる理想に到つては正に瞠目すべき課題を斯楽に投じたものと云えよう。

何故ならば此の提案こそ、実に彼の地にあって,屡々(しばしば)論ぜられ、而も今日に到るまで遂に成果を見得ない大問題に外ならないからである。
改めて言う迄もなくギターは其の機構上及び演奏上の特異性が、作曲家の何人にも直ちにその領域に入ることを阻んでいる。
「ギター音楽への作曲は此楽器を手にするもののみに許される」とは斯楽への嘆声でもあれば讃辞でもある。

事実、ギター音楽の極盛期として知られた18世紀中期より19世紀に亘る間に於てすら、名ある作曲家の一人として注目すべき作品を残しては居ない。

シューベルトの如き、ベルリオーズの如きギターを愛する事、人後におちず自ら此の楽器を奏でた大作家が、而もギターの為の作品を残さなかった事実は、前述の言葉を裏書きするものである。

ファリアは自身ギターを奏すると言われるが(真偽は知らない)彼の「デビュッシーの墓に棒ぐる」有名なHomenaje はギター曲として害かれたには相違ないが、リヨベットによって初めてギター曲としての生命をもった事実を見逃す事は出来ず、叉相馬氏も触れられたテデスコ、ボンセ等についても同様な点に疑いをはさむ余地があるやに聞いて居るのである。

之を要するに専門的作家に働きかける事は此の時代に於て最も望ましき事に違いないが、理想の如き成果を見る為には容易ならざる道程と條件とをもつように考えられる。

條件とは何であるか。

第一に其れに優れたる専門的作家が自らギターについての其の認誡(それは狸論だけではなお足りない)を深める事を要する。
第二には真に優れたる奏者(それは演奏技術の如きを遥かに超越した頭脳的奏者である事を要する)との協力を必要とする。

此二つの條件は極めて簡箪であるが而も容易に具顕し得るものでは斯じてないのである。

私の最望むところは、我邦が、大作家たるギタリストを誕生せしむる事にある。
一言にして言えば我邦かから、ソルを、ジュリアーニを、タルレガを世に出す事である。
これこそは我邦ギター界を其に世界的に且つ永遠の立場に置くものでなくて何であらう。

今日の我邦ギター界はなお揺藍期を脱してはいない。
単なる演奏技術に於てすら到底世界の第一線に踊り出す基礎的なものをもつては居ないのである。

然し多数のギタリスト中に何時の日にか、其に優れたる作家の現れ出づるのを期待するのは必すしも空想ではないと信するものであり、同時に専門的作家に少くともギターついての真の認識に対して注目を惹かしむる事は直接の成果を度外視しても、関節の効果を将来の日本ギター音楽に与えるものとして相馬氏の所説に賛意を表するものである。
演奏と理論に真摯なる研究を続けつつあると聞く相馬氏自身に到して、実は私の期待をつないで居るものである事を述べて置きたい。

digitalguitararchive/18-10-Study-of-Mandolin-and-Guitar.pdf/P.5-P.7



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