寿楽光雄
生誕:19??年(明治??年)(??市)
1942年11月10日 寿楽光雄 第一回ギター独奏会
於:東京産業組合中央会講堂
・プレリウド・ガボット(パツハ)
・プレリュード、アルマンド、クーラント(パッハ)
・主題と変奏(モツアルト「ソル」)
・華麗なる練習曲(ターレガ)
・ムーア風舞曲(同)
・アルアムプラの想出(同)
・演奏会用ホタ(同)
・歌謡詞(メンデルスゾーン)
・スペイン舞曲五番(グラナドス)
・アンダルーサ(フォルテ)
・セヴィリア(アルベニス)
[*出典]digitalguitararchive/1942-03-no.2-Mandolin-Guitar-Reserch
武井守成「雑感」/ 寿楽光雄氏の独奏会
日本音楽学校ギター科出身の逸材として小原安正氏の薫陶をうけた寿楽氏が第一回リサイタルを昨年11月18日 夜産業組合講堂で開いた。
コンサートに臨む事極めて稀な私にとって此リサイタルが寿楽氏の演奏に接する最初のものであるのは言うまでもない。
氏がすでに屡々(しばしば)その演奏を公開した事は、夙に(つとに:早くから)知つているが、しかし此の第一回のリサイタルは言わば氏の本当の巣立ちであり、それだけに注目に値する。
然し私は当夜の演奏を持って直ちに氏の将来をを卜(ぼく:占う)する事は避けたいと考える。
堂々たる曲目を提げて、正々の陣を進めた事は若き奏者として其の武者振り(むしゃぶり:雄々しい姿)に同感を覚えるけれども忌憚なく言えば氏はあらゆる点に未完成品たる事を示して居り、向後の大成には撓(たわ)まざる努力を必要とするであろう。
私は氏の頭脳と演奏上の素質とに期待をかけるが、唯氏が一朝にして大家になり了(りょう:終了)せざる事を希望して止まない。
我邦ギター界は大家に非ざる大家をもち過ぎて居る。
大家は一朝にして成るものではない筈であるのに。
[1941年11月18日]
『ギタリストの手帳』より 寿楽光雄「檄」
音楽表現の手段としてヴァイオリンやピアノが選ばれる。そして,ギターラを選んだ場合が私逹である。
ヴァイオリンやビアノが楽器であるならギターラもまた同じ楽器である。
然るにギタリストは、内に熱火の情熱を抱きつつ、外に羞恥(しゅうち)の音楽であると自ら卑下(ひげ)するのである。
(これはギタリストのすべてがそうであるとは言われないとしても、肯定されねばならない事である)之は不可解である。
私逹は何故にかくまで卑下しなければならないのか------
ヴァイオリンの持続音の微妙さやビアノの荘重さは無<とも、ギターラには豊穣なる音色と比類なき繊細さがある。
ペートーヴェンとベルリオーズはギターラを称(しょう:讃える)して小なる管絃楽なりと喝破し、又、スペイン近代音楽の巨匠アルベニスはターレガの演奏を聴き讃嘆惜(お)く能わざりしと言う。
ファリスは名曲ドヴィッシイを悼(いた)む「献呈」を物し、ギターラの4度調律に優れた現代的性格を確認する。
かくしてギターラの優秀性は現に立証され、今や国際的な地位に迄、躍進せんとしているのである。
此の優れたる楽器は我々の生命であった。僅か六條の弦から無限の律動と、旋律と、和音があふれ、豊饒な芸術的神秘が感得される。
偉大なる芸術家リヨベットを想へ、セゴヴィアを聴け、彼等はすべてギタリストであった。 我々もまたギターの道を行くならばギタリストたる誇りを持とう額を上げよう羞恥等あるぺき筈がない。
此の光輝あるギターラの為に生涯を捧げようではないか。
1942-01-no1-Mandolin-Guitar-Research.pdf
随筆[進駐軍での演奏から]:寿楽光雄
現在まで私は進駐軍のステージで弾いてきたのであるが、
それについての 、これは取り止めも無い記述である。
先づ此の仕事は前々からの計算であったのであるが、ギター音楽に対する一般(わけても芸能会社等)の認識が皆無に迄近く、却々(なかなか)月4,5回の機会を持つのみであったのである。
彼らは我々の独奏をピックを用いたジャズギターであると思い、ガットを張ったスペインギターであると説明すれば、ただ一途に地味であるとの理由を持って、好意を示さなかったのである。
幸いにしてこの仕事も最近暫く軌道に乗り、マネージャーも幾分認識を改めたかに思われるのであるが、このような面からも我々は堂々と清のギター音楽を主張して無意味ではないと思うのである。
楽界から忘れられた狭小な殻の中に、かろうじて呼吸するギターであってならないならば、あらゆる面から我々の音楽は積極的に強調されねばならぬと信ずるのである。
もちろん、これには我々の血みどろの刻苦、精励が平行しなければならない。
余談となったのであるが、米兵にしても英ギターは既に彼らののものである。
概してピック奏法であるが、真新しいギプソン等で無雄作に弾じ、唄で、充分に榮しむのである。
之に比して指頭奏者の蓼蓼(たでたで:苦みがあるにもかかわらず、それを好んで食べる)は残念であるが、時としてこの少ない中から耳新たな音や奏法を発見するのは素晴らしい。
いずれにしろギターを愛する彼らにとって、ガットの音は限りない魅惑であるのである。
進駐軍での演奏は要するに「仕事」であり、種々の苦しみがある。
例えばレパートリーであるが、常に外的な条件が之を制約するのである。ホールの広狭、反馨の良否、ステージとフロア、聴衆の種類、態度、マイクロフォンを使用る、しない等々、其の雰囲気から曲目の変更は維多となるのである。
程度の低下は「エスパニヤ・カーニ」を弾かねばならず、マラゲニヤ・グアヒラ、プレリアス等も弾く、多分にアメリカ化されたリムスキー・コルサコフの「熊蜂の飛行」など。
勿論私は如何なる昔榮に対しても音楽としての生命を否定するものではなく、フラメンコにしてもスイングのリズムにしても一応の関心を寄せるものではあるが、然しこれほ私の本領ではなく、この様な時こそ「仕事」の辛ざを思い、末熟の哀しみにいたく自己を顧みずには居られないのである。
時、所、上京のいかんを問わず、常に真実なる事故を赤裸々に主張し聴衆の納得を得る境地は、実に渺(びょう:果てしなく広いさま)たる彼方である。
勿論この如きは、私の拙い(つたない)演奏においてはまことに珍しい事である。大物ピアニストや、声楽家等と同行するのであるが、彼らに互してギターの栄光を燦然たらしむるべく、あまりに非力な事故にムチ打たねばならない。
然し、量的なコンサート形式のステージは愉快な一時である。概ね2、3曲の受持ちであり今度は良い意味で選曲に弱る。
大概、スペイン物は喜ばれる、特にターレガの「ホ夕」「アルアムプラの想い出」、「華麗なる練習曲」、アルベニスの「セヴィリヤ」、「グラナダ」、グラナドスの「舞曲第五」等ギター1個でリサイタルの様な事は少いのであるが、この様な時こそギタリストとしての責任と、また日本人としての誇りとを強く感ずるプロはリサイタルと全く同一で良く、バッハもソルもメンデルスゾーンも組入れ、又トリーナ、トロバ、テデスコも付加される。
我々の音楽はG.I.よりもオフィサーにより深い理解があるともいわれるが、必ずしもそうとは限らない。
アメリカはスイングの国であると共に、より以上に古典を愛する国である。
彼等の喜ぴほ卒直に表現される、良いものは良く悪いものは悪い。
彼等の拍手は真実でありあふれ漏れた純粋なる感激である。
そして之に喝采と口苗と足踏みが加わるのが進駐軍のステージでである。
しかも敦養ある高度な聴衆からは、真面目な拍手と喝采のみが強調されるのであるが・・・・。
司会者は聴衆を制しながら丁重の承諾を求める。
終了後、控室を訪れて握手を求めるオフィサー。アメリカヘ来た時には・・・とアドレスをくれるG.I.これらはギターに対する真実なる尊敬でもあろうか・・・。
勿論此の如きは私の拙い演奏に於ては誠に珍らしい事である。
大物ピアニストや声楽家等とするのであるが、彼らに伍してギターの栄光を燦然(さんぜん)たらしむるべく、あまりに非力な自己にムチ打たねばならない。
然し量的な黙迫には何等の脅威をも感ずる事はない。要はギターが、躍動する生命感に鳴つて居り、豊な晋築として流れてゐるや、否や、と言ふ事であらう。
セゴヴィアは、カーネギーホールでボンセの『南国の協奏曲」と、テデスコの「協奏曲二長調」を奏いて居るとの事であるが全く驚異であり、深く考えさせられるのである。
以上、大罷を断片的ながら記した積りであるが要を得ないのが恨みである。
ここに又思うには、自己の音楽の貧困とテクニックの不足であり、そして、まだ多分にギターが温室的であるという事である。