Itsukushima Perry

The "research era" of classical guitar music historyクラシックギター音楽史の「研究時代」

音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)は、明治12年[1879年]に設立された文部省の機関で、西洋音楽の導入と音楽教育の普及を目的としていました。
この機関は、主に学校教育における音楽の研究と実践を行い、唱歌や器楽教育の基盤を築きました。
一方、マンドリンは明治時代後期に日本に紹介され、特に学生や若者の間で人気を博しました。
音楽取調掛が直接マンドリンの普及に関与したという記録はありませんが、音楽教育の一環として西洋楽器の導入が進められた背景には、音楽取調掛の活動が大きな影響を与えたと考えられます。
つまり、音楽取調掛が西洋音楽の普及と教育に貢献したことが、間接的にマンドリンの受容と普及にも影響を与えたと言えるでしょう。
ギター音楽は、マンドリン合奏と共に育つて来たものであり、当時の多くのギター奏者も何等かのマンドリン合奏団に属している人たちだった。
その関係からギター独奏はごくまれにしか演奏されていなかった。
ギターを熱心に手にした人であるならばその独奏ががマンドリン合奏と離れた意義を持つている事を充分に知つて居る筈で あった。
クラシックギター音楽の『萌芽時代』大正年間(1912年-1926年)に於けるプレクトラム音楽は合奏全盛であった。


このページの紹介ギタリスト : 伊藤翁介 ・荘村正人   ・亀山寿天子


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伊藤翁介 Osuke Itoh

伊藤翁介
伊藤翁介

伊藤翁介 Osuke Itoh

[ 1911.2.26(明治44)~ 2009.2.28(平成21) ]

東京都出身。
建築家・発明家の伊藤為吉・喜美栄の七男。菅原明朗に師事。

  • 1934年(昭和9年)までオルケストル・シンフォニカ・タケイ
  • 1937年 ボムクラブを設立。
  • 1940年7月15日  AKマンドリン5重奏:ラジオ
  • 1941年9月2日 伊藤翁介ギター三重奏団(全国):ラジオ 1.ロシオ/キロガ、2.挨拶/アリエンダ、3.オリエンタル/クイオ
  • 1945年まで ビクターの専属。
  • 1947年まで NHK専属。その後フリーとして活動した。
  • 1947年 新風社を設立。
  • 1951年 ギターの表面振動板の共鳴理論を確立した。
  • 1952年 岩手県立水沢高等学校校歌を手掛けた際の作詞は草野心平である。
  • 1966年 詩と音楽の会を設立。
  • 1969年 日本童謡協会を設立。
  • 1979年『こどものうた』で第9回日本童謡賞。
  • 1992年(平成4年)第4回サトウハチロー賞を受賞。

[代表作]:『爪色の雨』(作詞 サトウハチロー)など多数の歌曲や童謡を作曲した。
[主な作品]:『猫の変身マーチ』(作詞 五味清花)、『地球の病気』(作詞 藤田圭雄)、『あしか』(作詞 藤田圭雄)、『胡桃』(作詞 サトウハチロー)など。
また、中学校や高校の校歌を手掛けることも多く、
著書に『伊藤翁介歌曲集』『現代奏法によるカルカッシ・ギター教則本1~4』がある。

日本作曲家協議会理事、日本音楽著作権協会監事、日本童謡協会常任理事を務める。
伊藤音楽研究所を主宰した。
[*転載]:<訃報記事など>/多磨霊園に埋葬されている著名人/http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/



digitalguitararchive/1939-76-Armonia/1942-11-no6-Mandolin-Guitar-Research
マンドリンのことギターのこと:伊藤翁介
私が武井楽団のメンパーとして入会させて頂いたのは17歳の年で今から15年前の事である。
其の時は年があまりに若過ぎると言うので問題になったらしい。
何故かと云つて10代でこの楽団に入ったものはかつて無かったからであった。
之が私の音楽生活への姶まりである。
年が若くてまるで子供だったからであろう。武井さんを初め皆様に随分と可愛がつて頂いた。
思えば楽しい若き日の思い出である。

マンドリンが好きで好きでたまらなくて寝ても覚めても学校の授業時間中でも考えるのはマンドリンの事ばかりであった。
そしてヴァイオリンと比較してマンドリンが如何に多くの優れた特長を有するかを列挙して見たり、ムニエルの尊くも悲運なる一生に感激の涙をこぼし、朋治44年に死んだムニエルと、同じ年に生れた自分とに運命のかすかな つながりな感じてハリキッたりしたものである。

その様に今考えても微笑ましい時代が過ぎて次に来たものはスランプの時代である。
マンドリンに失恋の腦み(のうみ:中心となるもの)を抱き始める様になってくると今迄はあばたもえくぼでマンドリンで無くては夜も日し明けなかった私は今度はマンドリンの欠点ばかりが目につく様になって来た。

之はどうも楽器の欠点ばかりでなく自分のテクニックの不足なための欠点が大部分主伝っていたのであるが・・・大きな行詰りに直面してしまつた。
之を打開すべくあらゆる努力をした。
トレモロを分解して、ストップウォッチで測つて見たリ、ムニエルの教則本を初歩からやり直して見たりした。
然しマンドリンの表現し得る音楽の限界と言うものは甚<懐疑的になった。
私は終にこのスランプを自ら突き破るだけの力がなかった。

そして以前からボッポッと手慰みにしていたギターに興味を持ち初め段々それに深入りして行く自分をどうすろ事も出来なかった。

この点、今なお異常な努力と愛着を以てマンドリンを演奏していられる先輩諸氏を見ると自分だけが浮気をしてしまった様で何とも済まない気がしている。

それから後、月日が経っていろいろの事を経験し、いろいろの音楽に接した結果、現在ではマンドリンを正常な心で見直す事が出来る様になりこの可憐な楽器の特長も領分も持味もすべてを正当に評価出来るだけの心の余裕を持つ様になった。
マンドリンから這入った私はやはりマンドリンの音を聞く事が好きである。
そしてマンドリンの独奏よりも合奏よりも小さな編成のアンサンプルに非常な魅力を感ずる。


長い問御厄介になった武井楽団をやめたのは今から丸8年前の事である。
之は私の一身上の都合の為でそれまでアマチュアであった私は大胆にも音楽を自分の一生の仕事としたい念願を実行に移す事とし差し当って生計を立てるためにビクターの専属となった為である。
ジャヅ畑でないギタリストでレコード会社の専属となったのは恐らく私が最初であろう。

始めの頃は全く暗中模索であった。
レコード会社のオーケストラと言うのは皆様御存じの様に何ともつかない一種独特の編成を持ったオーケストラである。

一本単位の楽器を寄せ集めた僅か15人足らすの管絃楽団であらゆる形式の音楽を一応やってのける。
木管があり金管が吹きまくる之等は全くギターの持つデリカシーとは凡そかけはなれたものである。
最初全くあわててしまつた私も1年経ち2年経つ内に段々とそれらの楽器とギターとのコンビネージョンにいろいろの手がある事を発見し段々とひけを取らない様になると共に悪ずれする様になってしまつた。

この小管絃楽編成に於けるギターの種々なる使用法と効果と言う問題は大変面白いのでいつかの機会に筆を取つて皆様の御参考に供したいと思っている。

とにかくギターと駈落ちしてしまった私は末だにビクターでギターを弾いている。
マンドリンに対して抱いた様なスランプをギターに今以て感じないのはどう言うわけであろうか。

私の職場の関係にもよるのであるが私の周囲の人々は殆んど音楽家であり乍ら、殆んどギターを知らない人逹が多いのでそれらの人達にギターを認識させたいと思う様になった。

ギターの仲間逹はギターの良さを知り過ぎる位に知つているし、その中のある人逹は信仰に近い迄にギター音楽に心酔している。
ギターに関心を持たない音楽家乃至は音楽愛好家にギターをひろめたい、ギターに関心を持たせたい、と言うのが私の希望である。
ギター音楽が一般の他の音楽と同様のレベルにあるものであり、全く同じ様な芸術的境地を持ち得るものである限り、他の音楽と遊離した離れ小島の様な存在でギター音楽を封建的に守り育てて行くのは凡そ意味ない事であり、ひいては一般の音楽界から何等の関心を払われない独善的な存在となってしまう危険性が多分にあると思われる。

同じギター音楽の発展の為に成すにも種々と異った手段方法がある筈である。
皆がすべて同じ様な方向にばかリ努力してもぶつかってしまうばかりで効果は少ない。
銘々が自分の能力と地位と境遇を十二分に生かして其の最もよき面にその手腕能力を仲ばして行けばそのトータルサムに於いてギター音楽の発展に当す事は蓋し(けだし:たしかに)甚大なるものであろう。

斯うした意味から私が選んだ部門は私の商売柄、最も私に適した面であり他のギターの人々が手掛けていない部門を受け持ってそれを全うする事によってギター音楽の発展に幾分でも寄与したいと言うのが私の偽らざる心境である。
拙著「ギターの軽音楽」や伊藤ギター楽団等は之等の目的に沿つてやつているもので純ギター音楽愛好者の立揚から家ば種々の御批判もあろうかと思われますが、ギターのグループ以外の人々に関心を持たせ少しでもギターを好きにさせたい為のデモンストレーションである事を御承知置き願いたいと思う。


例えば誰でもが知っているヴァイオリン曲をギターで演奏する、之れを聞いた人の中で「ギターでやるとまた変わった昧があって面白いものだとか「ギターでもこんな曲が弾けるのか」と言った様な事を考えたり感じた りしてくれる人が一人でも二人でもあったら私はそれによって滴足する。
何故なればそれらの人々がいつかはギター音楽の愛好者又は演奏者となろ可能性を信ずるからである。
その為にはどこ迄も良心的に、投げやりでない仕事をしてギターの新しきフアンを獲得して行く積りでいるが果してこの勧誘員にどれだけの力量があるか、皆様の御後援を切にお願いする次第です。

それから私のもうーつ実行している事はギター音楽の新鮮なレパートリーをもっともっと殖やす事である。
ギターに移して新しい生命を見出す事の出来るものなら歌曲でもヴァイオリン曲、セロ曲、オルガン曲、何んでもよい、古今東西あらゆる音楽の中から厳選の上ギターに編曲して行さたいと考えている。
既に刊行されたものだけでも60数曲に逹している。
之は私が最も力を入れている仕事の一つで、やさしくて楽しい曲を沢山に持つ事はギターの初歩者をどれだけ喜ばせ希望を持たせるかはかり知れないのである。
それだけにいい加減の仕事は絶対に禁物で選曲、編曲、その出来るだけ慎重にやっている。

私はこの仕事を勇気づけるためにはいつもタルレガの編曲に就いて考える。
タルレガが月光の曲を編曲しオーソレミォ、ラパロマをギターに移した気持ちがよく判る様な気がするからである。
書きたい事は沢山あるが専問的な私見は次の機会に譲って、唯過去15年間の私の考え方の移り変わりを書いてこの稿を終る次第である。
(昭和17年10月15日)

荘村正人 Masando Shomura

荘村正人
荘村正人

荘村正人 Masando Shomura

  • 1912年-没年不詳

1912年(大正元年) 岐阜市生まれ。
(社) 日本ギター連盟副会長

[書籍]
朝の散歩【荘村正人=ギタリスト・中央法規出版会長】1986年



1957年6月22日 岐阜ギター研究会[第7回ギターを楽しむ会]:伊東尚生、荘村正人二重奏
1966年(昭和41年)から  日本マンドリン連盟成立に協力  杉田 村雄、高橋三男、荘村正人
1958-05-04-Armonia

本誌 3・4月号に伊藤尚生先生がコンクールを全国的に統一したらどうかと書いておられますが、まことに時宜にかなった提案で、是非今秋か来春を目途に全国統一コンクールがなされることをギター界のために心から祈っています。
それには何と申しましても人格高いいわゆる 長老の方々(御尊堂とか、名古屋の中野さん、岐阜の伊藤さん 、東京の高橋三男さん、平山さん、大阪の月村さん、九州の岩橋さんなど)[*1]一度是非一堂に会して発起していたゞけるといいと思います。
今度のゴンサレスの場合をみると日本にも随分ギター愛好家がふえたことが推察されます。
前記コンクールで全国が統一されれば、その力で次々と外国演奏家を招くことも困難ではないでしよう。ー大連盟の成立を切望する次第です。  

[*1]高橋功氏、中野二郎氏、伊藤尚夫氏、高橋三男氏、平山氏、月村嘉孝氏、岩橋正和氏


1968年:ギター日本 09ジョン・ウィリアムス特集

荘村正人(東京)
ジョン・ウィリアムスが来演するということに一番期待するのは,何と言ってもテクニックの完璧さということだと思います。
日本人の演奏技術も随分と高くなって参りましたが,未だ未だ私達はこの機能主義を追求していかねばならないと存じます。
早い話がNHK 教育テレビの「ギター教室」と「ピアノ」「バイオリン」の稽古に出て来る生徒さん達の技術の水準を比較してみますとそれが直ぐ判ります。

もっともギターを習う多くの人達の中にはテレビのピアノ或いはヴァイオリンの中等程度以上の技術をもった方々もあることは確かでしょうが,然し残念ながら今のところその数が非常に彫ない為にあの限度の「教程」でなければならないのでしょう。
この問題をも少し掘下げて機能主義を拡大させるには,昔から言い古された言葉ですが「芸ごとは子供のうちから」ということになるような気がいたします。こおいう情勢のところへ幼少からギターを手にしたウィリアムスのような完璧な技巧の持主が,その演奏を披露してくれることは, 日本のギター界にとって大変有意義なことだと思っております。

次に前回来日の折感じたことは,バッハ前後の古典曲において示した非常に格調の高い演奏に驚いたのですが,反面アルベニス等の民族性の強い曲については油こさがないという点で物足らないものを覚えましたが,これらの曲が今回の来演でどう変っているか,或は変っていないか,この辺が一つの聴きどころだと私は思っております。

プログラムB の「テルプシコール」からの三つの舞曲…・・・ミカエル・プレトリウスを聴いたことがありません。
現代曲であろうと古典曲であろうと聴衆の共鳴をかちとる曲が一つでも多く紹介されることは有難いことです。
その意味でこの曲に期待しています。


亀山寿天子 Suteko Kameyama

亀山寿天子
亀山寿天子

1919年-??

1919年(大正8年)1月1日生(東京都)
女子高等学園本科卒
保坂益朶、故弘田竜太郎に師事。

1951年 秋デビュー

[批評]:亀山壽天子氏のギター独奏会を聞く:小船幸次郎
亀山壽天子氏の演奏には覇気がある。
覇気が今の亀山氏を在らしめて居る様だし、近い将来を保証してさえいると思う。併しその反面必然的に温味に欠けている。
音楽で本質的に温味を持つものは和音である
現在の亀山氏はこの和音の理解に欠けている。和音の本質を正しく理解し、その表現方法を学ぶことで将来亀山氏はその演奏に淵味を生むことが出来ると思う。---中略---
最後のグラナドス「スペイン舞曲五番」はよく勉強してあったらしいが、この曲が最後の為に張り切り過ぎたのか、余計な昔を弾いたりして破綻を見せて惜しかった。
以上の曲目を振返つてみると実に立派だ。1にソナタ、2 にバッハ、ハイドン、モーツァルトの純音楽畑のクラシックを置き、3 にトロバ、ボソセ、タンスマン、の現代作家のもの、4にアルベニスとグラナドスの純スペイン作家の租々一般性ある舞曲風のもので終る。
立派ばかりでなく上手な組み方である。どの部分が良かったかと考えると、どの部分にも褒め切れないものがあり貶し(おとし)切れないものがある。
この批評を制限せしめてゐるものは素人味である。この素人味は現在日本のギターリストの誰もが持つているとろのもので、亀山氏に限ったことではない。
早く日本のギター界がこの素人臭味から脱してもらい度いと願っている。

ギタルラ 1951-10-No.11



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