< 高嶺 巌 1951年10月3日 第1回ギター独奏会 東京YWCAホール:厳島ペリー

Iwao Takamine: Guitar recital debut in 1951

高嶺 巌 1951年デビュー

1951年 秋デビュー

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高嶺 巌 1929年(昭和4年)1月8日生
高嶺 巌 1951年10月3日 第1回ギター独奏会 東京YWCAホール 1929年(昭和4年)1月8日生
・1951年(昭和26年) 1951年10月3日 第1回ギター独奏会 東京YWCAホール
・1953年(昭和28年) 1953年11月16日 高嶺巌古典ギター独奏会 東京第1生命ホール
1955年12月19日
高嶺 巌 君のリサイタルを聴いて [演奏批評]
溝淵浩五郎
昭和30年の最後のギターの演奏会であった高嶺巌君のリサイタルは12月19日、第一生命ホールで行われた。当日は寒い日であったがホールの暖房は完全で春の気候のように気持ちのよい温度であった。
高嶺君は終戦直後から数年間、私が初歩から手をとって教え上げた弟子である。
その弟子の批評を柑くのは実につらいことである。
ほめて書いても悪く書いても世間から何とか言われ勝ちである。
しかし玖島氏から依頼されたので止むを得ず筆を執った始末である。

さて当日の第1部は、a夢(トレモロ)……タルレガ、bゆりかご:・・・・タルレガ、Cアラールの練習曲、d夜想曲:…トルロバ、e 前奏曲第一番……ピリャロボス、の五曲であったが、ファーストステージのためか物凄く上気してしまい全曲共大失敗に終ってしまった。
最初の夢(トレモロ)は最初から堅くゴチゴチしておりトレモロも堅く、表現も平坦で話にならなかった。
その上トレモロを奏く時にPimaだけ滑らかに動かすぺきものを彼は手の甲をも細かく振るわせている。
あんなフォームでは到底トレモロは美しく出来ない。
ゆりかごも表現が堅くテンポは崩れるし問題にならなかった。
アラールの練習曲も堅く、荒っぽく、エラー続出、や総局は重っ苦しく自己流の解釈が田舎臭くて不出来、ロボスの前奏曲もやはり堅く、そのうえ間違って暗譜していた箇所が多く、これもダメと言った始末であった。

第2部はバッハの曲ばかりで、aリュートもための前奏曲とアレマンド、b二つのガボット、cシャコンヌ、と言った立派なプログラムであった。
陶冶を通じてこの部の演奏は一番良かった。
何しろバッハの曲なので勝手にテンポを崩すことは許されないので忠実に弾いたためだろう。
非常にまじめにガッチリと弾いていた。演奏がうまいというのではないが努力賞でも与えたいような気がした。

第3部は、aマラゲーニア……アプロニス、b入江の便り·…アルペーニス、Cグラナダ・・・・・・アルベーニス、d物語:・・・・アルペーニスの四曲であったが、どれもこれもリズムが実に野暮で、メロディーはしつっこく、その上表現は堅く、自己流の解釈でうまくなかった。
私が教えていた間はもっとオーソドックスな演奏をしていたし音も美しかったが、一本立ちになってからは幾分天狗気味で勝手な解釈をしているようである。
当夜玖島氏はじめ奥田、京本の三氏は声を揃えて『高嶺氏は音はもっと美しかったのに、とてもきたなくなりましたね』と云っていた。
但しポリュームは増したようであった。
アニードの演奏を参考にしてるのか右手はプリッジの近くを奏いていた。
もう少しサウンドホールの近くで奏いた方が音は軟かになるだろう。
さて当夜の音楽を全体から誂めると、どうも高嶺君は演奏家には適さないらしい。
猛烈なあがりやである点や、聴衆を魅了するようなセンスの無い点などは演奏家としては致命的な欠陥だろう。
然し彼のギターに対する想像外の熱情、立派な学歴(彼は炭応大学卒)、等は将来彼を教授として成功させることだろ大部過酷な評のように見えるが、私は彼が教授として成功する日を期待して筆をおく次第である。

1956-06-ギターの友 P.9-10

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