1956 Yasuo Abe Tedesco "Guitar Concerto in D major" premiere [Yokohama Prefectural Music Hall]

Mario Castelnuovo-Tedesco 作 『ギター楽協奏曲』本邦初演


[*挿画]:digitalguitararchive/1957-04-02-Armonia/
Mario Castelnuovo-Tedesco 作 『ギター楽協奏曲』本邦初演
昭和31年2月20日 横浜市神奈川県立音楽堂
ギター独奏・阿部保夫 指揮・小船幸次郎 横浜交響楽団

阿部保夫君の協奏曲演奏   小西誠一 [1956年2月20日]
高橋 功 兄

2月20日横浜の県立音楽堂とで暫く振りに御目にかかれて愉快でした。
フラウ御同伴で、はるばる宮城県から御いでになった貴方の御熱心には何日もながら敬服しました。
尤もそれは貴方に取っては単なる熱心以上の動機に基づいている事は分っていました。
というのは僕も亦貴方の動機に近いものを持っていたからです。
いや、僕丈ではなくギターに深い関心を持っている多くの人々は、大なり小なりそれに似た動機を持ったでしょう。

西は九州から北は東北地方に至る都市から来聴した人のあった事が、それを語っています。
いう迄もなく、それはこの夜の阿部君の出演が日本に於ける最初のギター協奏曲演奏だったからです。

昭和4年にセゴヴィアが来朝して、ギター演奏の本当の姿とギター音楽の本当の美を我々に教えて以来約30年間に日本のギター界は少し宛であっても発展を続け、水準も次第に高まって来たとはいえ、ギターの演奏家、教師、研究家、学習者が可なり増えたとはいえ、ギターが一般音楽の仲間入りをし、管絃楽と一所に演奏したり、室内楽の演奏に基本楽器として加えられたりする所迄は行かず、その独奏もギター界の中で行はれ、聴く人も大部分がギター界に関係ある人々に限られていたのは一つには全体としてギター界の水準が低い為でありますが、も一つはギターが一般の仲間入りをするきっかけ、機会が見出されなかった為と考えられます。

所がそのきっかけが小船幸次郎君の好意によって始めて与えられたのでした。
阿部君が小船君の指揮する横浜交翌楽団の演奏会でカステルヌオヴォーテデスコの第一ギター協奏曲、ニ長調、作品99を演奏する事になったのは、だから他の多くのギター関係者に取っても同様僕に取っても大きな喜びで、期待に胸をふくらませた事はいう迄もありません。
日本に於ける最初のギター協奏曲演奏、それは全くmemorableな出来事としはねばなりません。
然しこの夜の演奏が、ギターが一般音楽の仲間入りをする事の出来るか否かの分れ目になるのではないかと考えた時、僕は演奏の成功を祈る心と一種の不安とを感じないではいられなかったのです。

不安の原因は管絃楽とギターとの音のパランスに就いてと、も一つは阿部君が上がってくづれはしないかという懸念の為とでした。

阿部君の演奏は僕は昭和24年にコンクールで一等に入賞した時と一昨年の帰朝演奏会と丈しか聴いていません。
然し同君が現在日本で最も期待す可きギタリストの一人である事はコンクールの時から感じていました。
僕の今迄聴いた日本のギタリストが音量が少いという根本的欠陥を持っているのに対して阿部君は充分の音量を持っていた事と同君の演奏が音楽性を持っていたからです。

音量を持つという事は表現力を持つという事と大きな関係があると思います。
音量が少くって而も表現力があるという事は、自分で奏いて自分丈で聴いて、ゐる場合にはあり得るかも知れませんが(ないかも知れません) 、ステージで奏く場合聴衆には働いて来ません。
そして表現力のない、若くは乏しい演奏からは人を押え又は感動させる様な音楽は出て来ません。
然しこの点では、阿部君は始めから信頼感の持てる人と僕には思はれました。
音楽性に就いても僕は阿部君には安心していました。
音楽性のない演奏は演奏としてはゼロです。
所がそれを持たず、又持たない事に気が附かないギタリストが如何に多い事でしょう。
この点で阿部君がいいものを持っているのは同君の大きな強味であると思います。

テクニック、メカニックの点でも僕は帰朝演奏会を聴いた時に手堅さを持っているという印象を与えられました。
といった訳で、そういう点では僕は不安を抱く事はなかったのですが、何しろ始めての協奏曲演奏ですから阿部君が緊張し過ぎたり、上ったりしてやり担いをしやしなし、かを懸念した訳です。
何しろ聴いてるこちらが硬くなってかたづを飲んでゐる位ですから演奏する阿部君は一附堅くなっていたろうとは充分察しられました。

次に第二楽章では阿部用が相当上っているのを感附いた人もありました。
・・・僕はぽんやりして気が附かなかったのですが。

も一つの問題は管絃楽とのパランスです。
縮少された、17人の編成ではありましたが、それでも始まる迄はギターがそれに対抗し得るか如何が気になりました。
そして事実第一楽章では管弦楽が梢もするとギターの音を被ってしまう傾向がありました。 然し第二楽章以下は大体としてギターの音が通り、む色の変化も明晰に聴き取れました。
尤もホルンが時々大きく響き過ぎた様な気がしましたが、それは楽員が全部アマチュワである為ホルンの音を充分に柔かに特かす訓練が出来ていなかった為であるかも知れません。

曲は穏健なスタイルと内容で出来ていますが、さりとて決して古風な、平凡なものではなく、旋律、その他の音の扱い方に穏和な近代色が見られ、華麗な所や強いエキスプレッンョンはないとしても落附いた、趣味のいい作品でギターを充分生かす様に書かれて居りギターのレバートリーとして好ましい作品という感を与えました。
そして阿部君はイタリー作曲家特有の美しい旋律を基とする、南欧の夜を思はせるロマンツァ風の第二楽章をよい感情を以て奏き、ギターのテクニックと音色の変化を引たたせた、ロンド風のテンボの速い第三楽章を手に入った抜巧と難点のない解釈で演奏して大喝采を博し、第一回のアンコールには第二楽章を、第二回のアンコールには第三楽章を礼奏したのは誠に愉快な事でした。

僕は先にいった通り始めから、この演奏によってギターが一般音楽の仲間入りが出来るようになるか否かに最大関心を持っていました。
そして聴衆のこの反応によって阿部君のギター協奏曲がこの交響楽演奏会の聴衆を捕えた事、従って一般音楽フアンの鑑賞に堪え得る事を知って大きな喜びを抱いた事です。
これでやっとギターも一人前になったという気がしたからです。
これは確にギターに朋るい未来を約束したといえるでしょう。

唯一つ注意すべきはこの演奏が日本で一番音響効果のいい神奈川県立音楽堂で行われたという事です。
ギターがこんないい効果を以て響いたのはこの楽堂だったからとも考えられます。

音響効果の悪い楽堂ではこれ丈のいい結果が得られたか如何かという気がしないでもありません。
が考えて見ると阿部君が帰朝演奏会を開いた日本青年館のホールは案外いい音響で、ギターの響きに気になる程悪くはなかったと思います。
だから楽堂によってはギター協奏曲が案外うまく行く所があるかも知れません。

次に伴奏オーケストラの問題ですが、横浜のは楽員がアマチュワである為痒い所え手の届く様には行かなかったのは当然で、楽員が専門家であったなら音量の加減がもっとよく行ってギター協奏曲としてもっとよい演奏が出来るという事も考えられます。

それにしても小船君がこの協奏曲を曲目中に加えた貢献と意義とは、我々ギターを愛するものから充分認められ、感謝されねばならないと、思います。
小船君の好意とギターに対する理解がなかったら何日になったらこういう機会が到来し、ギターが延びる端緒を掴む事を得たか分らないでしょう。
我々はその事を何日迄も忘れないでいましょう。
所でこの手紙は御ー所に聴いた事を貴方に御報告するという可笑しなものになってしまいましたが本当をいうと敵は本能寺にあったのです。
僕は貴方宛ての手紙の形で聴いた事、観た事、感じた事を読者に報告するつもりでこの手紙を書いたという事は御分り頂けるでしょう。
貴方や他の方々が書かれた事と重複したり、他少矛盾する事もあるかも知れませんが、その点は御赦して頂く事として不敢取日本に於ける最初のギター協奏曲演奏に就いて何か書きましょうと云った御約束を果たす訳です。



[*挿画]:digitalguitararchive/1957-04-02-Armonia/





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