1936: The Founding and Motivations of
the Ishihara Mandolin Ensemble
1936年 石原マンドリン合奏団 第21回演奏会
[中央 指揮者:寺門渓村]
[*最前列 ]:女性4名 ??・右側男性4名 ?? ,最前列女性・男性2名 ??
[*女性4名の後ろ男性]:??
[*2列目ギター奏者5名]:左から4名不明、5人目:西森正治
[*ほかの方]:不明
[*挿画出典元]:digitalguitararchive/1936-53-54-Armonia/P.39-P42
本邦マンドリン合奏団(5) ~合奏団より語られたる紹介~ |
我国斯界の恩人アドルフォ・サルコリ氏の門下である石原花子 女史は彼の大震災の其の時まで横浜に於て既にマンドリン、ギターの教授をして居られましだが、其の燒け出された身を当地、阪根楽器店主の招聘により来阪、翌大正十三年一月より当地に於てマンドリン・ギターの教授を始められ今日に及んでおります。 当時大阪では横山伝一郎氏がマンドリンの教授をして居られましたが、いまだ未だ一般には余り知られて居なかった様でした。 楽器も鈴木製上等等のでカタニヤのマンドリンが一、二の楽器店に飾り物の様に一、ニヶ位置いてった位で、ギター当は稀にしか見ることも出来なかったようでしたが、これに機器店主の尽力により良教師を得、楽器も種々取り寄せられ大阪斯界発展への第1歩を積極的に踏出された訳です。 大正十三年一ケ年間に石原女史の教えを受けたる者月平均三十六名、翌年は五十三名、十五年度には実に七十名に逹し全く驚異的発展をみせ、音楽的には殊に幼稚であった商都大阪にマンドリン、ギター音楽を一般 に晋及せられたその効力と功績に到しては唯々敬服の外なく、関西斯界の今日あるは全く石原女史に負ふ処甚だ大なりと言うも決しに過言でない事を信じます。 尚合奏団はこれ等石原門下生の有志の者のみによって組織されて居る全くうつくしき師弟愛によって生れ出でた合奏園であります。 ※創立の動機 大正十三年十月二、三の門下生の間に「我々は楽譜の読み方は勿論、マンドリンのマの字も知らなかった。 一年間手を取って教えを受けた我々有志の者だけで何か合奏して先生に聞いて頂こうではないか、出来れば小さい乍らでも音楽会を開いて其の労を慰うではないか」との議がまとまり、翌月第一水曜日から合奏練習を開始致しました。 之が当合奏団創立の動機であり、永久に変わらざる意志をもつて誕生したのであります。 ※経過 然し、当時は大阪洋楽研究所(マンドリン、ギター、ビアノ、ヴァイオリン、声楽科)として存在して居た関係上各科合同で大正十四年二月二十一日、第一回演奏会を開催しました。 当時のメンバーは第1マンドリン石川、戸田、第2マンドリン、森、横大路、マンドラ、田中、寺門、ギター、吉本、金子のダブルクワルテットでしたが同年11月の第2回演奏会には第1、6・第2、8マンドラ、3・ギター、4・とメンバーだけは素晴らしい躍進を示しました。 翌大正十五年六月の第三回演奏會に初めてマンドセロが一ヶ加り「之で低昔築器が一っ出来た」と無性に喜んだものでした。 同年十一月の第四回演奏會はマンドリン部単独開催、メンバー第一、九・第2、9・マンドラ4・ギター4・マンドセロ、リュート各1・と言う相変わらずの跛行的編成でしたが、、技量の点でも又熱心笞に於ても黄金時代でした。現在でこそこのような編成を笑いも得ましょうが、営時はメンバーでさえオーケストラの編成がどうあるべきか等に対して一向無関心で、平気で奏していたのですから一般にはまだまだ只珍しがられていたようです。 |
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