Itsukushima Perry

A Pioneer in the Japanese Mandolin World日本のマンドリン界の先駆者

田中常彦[Tsunehiko Tanaka]は、日本のマンドリン界の先駆者であり、日本で最初のプロマンドリニストとして知られています。 彼は1890年に生まれ、1975年に亡くなりました。

[主な業績と活動]
慶應義塾マンドリンクラブの創設: 田中常彦は、1910年に慶應義塾マンドリンクラブを創設し、日本のマンドリン音楽の発展に大きく貢献しました。
日本マンドリン連盟の初代会長: 彼は日本マンドリン連盟の初代会長を務め、マンドリン音楽の普及と発展に尽力しました。

[演奏活動]
田中常彦は多くの演奏会で活躍し、彼の演奏は多くの人々に感動を与えました。彼のレパートリーには、クラシックから現代音楽まで幅広いジャンルが含まれていました。

[作品と影響]
田中常彦は、マンドリンのための多くの作品を作曲し、その中には「無言歌『ナポリの想い出』」や「ゆりかご」などがあります。彼の作品は、現在でも多くのマンドリニストによって演奏されています。
田中常彦の生涯と業績は、日本のマンドリン音楽の歴史において非常に重要な位置を占めています。

田中常彦 Tsunehiko

田中常彦
田中常彦

マンドリン奏者
生年月日:明治23年 (1890年)4月14日
没年月日:昭和50年 (1975年) 7月5日
出生地:東京都
学歴:慶応義塾大学卒
経歴:マンドリンをアドルフォ・サルコリ、ラファエレ・カラーチェに師事。
大正9年(1920年)から2度、イタリアへ留学。日本マンドリン界の先駆者。

[活動内容]
1908年 慶應義塾の予科に入学する。
1910年に慶應義塾マンドリンクラブ(KMC)を創立する。
彼はマンドリンの独習者であり、クラブの設立に尽力しました。

[演奏会開催]
1912年には、横浜バンジョークラブとの合同演奏会を開催し、クラブの活動を広げる。


[指導と普及]
KMCの後輩たちを指導し、内田寅夫や宮田政夫などの優秀なマンドリニストを育てた。
また、サルコリ氏との出会いを通じて、イタリアの正統派マンドリン音楽の指導を受け、クラブの音楽レベルを向上させた。

[演奏旅行]
KMCのメンバーと共に日本各地への演奏旅行を行い、マンドリン音楽の普及に努めた。


[独奏活動]
田中は、サルコリ氏のギター伴奏やピアノ伴奏でマンドリン独奏を行い、多くの独奏曲を初演しました。

[指揮活動]
1912年5月25日: 横浜バンジョークラブとの合同演奏会で指揮を担当。

[マンドリン演奏活動]
1912年5月25日: 横浜バンジョークラブとの合同演奏会でマンドリン独奏を披露。
1913年: 東京YMCAホールでの演奏会に参加。
1915年6月20日: 第3回音楽普及会で指揮を担当。マンドリン独奏活動
1920年: 東京マンドリン倶楽部の一員として演奏。
1925年: シンフォニア・マンドリーニ・オルケストラ(SMO)での演奏


田中常彦は本格的なマンドリン独奏家を目指してサルコリ氏の紹介によるイタリア留学を志し、大正9年(1920年)7月ナポリへと向かった。

1924年(大正13年)5月:4年間のイタリア留学を終え帰朝。(34歳)
1927年(昭和2年)7月:(田中氏:37歳)後輩のギタリスト月村嘉孝氏(25歳)と共に再びイタリア留学に向かう。

澤常彦氏の演奏会に臨みて:武井守成[Morishige Takei]論評


『澤氏が演奏家とし作曲家としての帰朝後第一次演奏会は報知新聞祉主催の下に11月16日夜(1924年)、報知講堂に開かれた。
独奏に於ては澤氏の作品発表を主眼として全曲目を自作に埋め、4部合奏に於てはマンドリンの為のオリヂナルな曲を避け殊更にヴァイオリン4部曲を選んだのが特色である。
更に詳しく言うならば独奏ではビアノの伴奏のもの3編、無伴奏曲、すなわち所謂(いわゆる)デュオ曲2つを並列し、4部では一つは古典的なモツァル卜を、一つは近代的なボロディンを対立せしめた事が注目に値する。

4部合奏の2曲は第1マンドリン 澤氏、第2マンドリン 加納徳三郎氏、マンドラ 内田寅夫氏、マンドロンチェ口 宮田政夫氏で、技巧の優れた人達を集めて居る上に各個の技能、特に奏法の一致という点に於て稀に見る立派な4部合奏団を編成し得た。

曲目はモツアルトが第5番ィ短調、ボロディンが第2番二長調である。 モツアル卜はマンドリン4部で演奏されるとすれば之以上は不可能であろうと思はれる迄注意深く、真摯に、且つ熱心に奏されたに拘らず、私逹にはどう考えてもヴァイオリン4部の摸倣、而もそれは近接しがたき模倣と言う感じが深<真に魅惑を感ずるには到らなかつた。

それに引換えボロディンは遥かに面白い。
プレクトラム四部に移して之だけの面白さを認めしめるのは明に楽曲そのものがモツアルトの4部よりは近代的な色彩とプレクトラム4部に適応せる手法上の素質とを有するが為である。
とわ言え、第3楽章のノットウルノの如きは此4部曲中での最魅惑的な部分であり、且つ当夜もプレクトラム4部としては立派にひかれはしたものの、ヴァイオリン4部でのあの美しさを想起せしめてやまなかつた。

澤氏が特にヴァイオリン4部曲2つを選んだには種々な意味があった事と思う。

1つはマンドリン4部曲(それはムニエルの3つとファルボの1つ以外にない)に満足を表し得ない為、
2つはマンドリン4部曲作家への警告を与えんが為、
3つはヴァイオリン4部曲がプレクトラム4部に於て如何に表現さるるかを示さんが為、其他いろいろあらう。

而してプレクトラム4部に移してヴァイオリン4部以上若しくは同等の効果を挙げ得ようなどと考えたのではなかつたに違いない。

澤氏が斯界に投じた暗示は明に大きい反響を与えた事を信ずる。
而して此の反響がやがてマンドリン4部への大きく美しい独奏4舞曲となって現れる事を考える。

演奏は極めて均衡を保つた奏者の技巧によってプレクトラム4部としては成功を克ち得た。 曲がァイオリン4部曲なるが故にあらゆる方面から物足りなさを感じたとしても、それは澤氏の前述の如き意図を考えれば徒(あだ)に非難は出来ない。

この4部曲に於いて私の特に感じた事は、澤氏が演奏上の技巧に生きると言う様な些末な問題から離れて極めて自然な気分に生きた事である。
之は澤氏が数年間の滞伊(イタリア滞在)で得た最も大きな収穫であると私は信ずる。

澤氏自身は表情に生さようとか気分を出そうとか言う事は何等考えもせずに而も曲を生かしたのは澤氏の頭脳に自然の表情が出来、気分が出来たに外ならない。
(再び言う。それはプレクトラム4部としての謂(いわれ)である。)

マンドリン独奏は当夜最期待されたものである。
1つは作曲家としての澤氏を、2つは演奏家としての澤氏を知らんが為である「メロディア」「ミヌエット」「無言浪漫曲」の3つはビアノを伴奏として居るが、澤氏自身も云う通りのごとく著しい革新さや奔放な手法はみられない。
しかしてそれはまた当然なことである。 
   「メロデイア」は読んで字の如く一脈の旋律であってそれは当夜配られた解説に記された通りヴェネッィアのカナーレを思わせるに充分であった。
「ミヌエット」は此古典的な高雅な舞曲に極めて自然裡に清新な和声を取入れ時折ドゥォを用ひて明快な高調な感情を示したところに面白さがある。

3曲中では此曲が最も一般から喜ばれた様であるが単に素人向と言う様な意味でなく確かに此曲には人を魅惑するだけの力があった。
「無言浪漫曲」には独奏部にも伴奏部にも随所に近代的な音がきかれる。
そして平易なマンドリン独奏曲の将来の生命を暗示して居る事が興味ある点である。

此3曲とも次の無伴奏の2曲に比すれば澤氏の初めの作品であり、作家としての第一歩である。そこ彼にもそれぞれ異なりたる感情と手法とがあってかれを優れりとは言えない。

ただ私の感じのみを言えぱ「無言浪漫曲」と「ミヌエット」に「メロディア」よりも深い親しみをもつ。
3曲を通じてビアノの伴奏部の巧致さは推稿に値する。
殊に「無言浪漫曲」に於てそうである。
「メロディア」の如きは伴奏なしには当然生きられない。

最後に特に強く戚じた事は3曲を通じて如何にも澤氏の個性が明にあらわれて居た事である。
瞑目して静かに耳を澄ませば「澤氏の見たるヴェネッィア」、「澤氏の舞曲」、「澤氏のセンサッイオーネ・ロマンティカ」は躙如として眼前に現われる。
無伴奏の2曲「夜の囁き」、「幻想的円舞曲」は私逹の最も期待したものである。
それは単に無伴奏曲であるという理由からではない。
無伴奏曲、即ドゥオ曲が近来その可能性に於て行詰つた感のあるのは否めない。
ムニエルのドゥオ曲が假令(たとへ)所謂(いわゆる)「新らしがりや」の非難をうけるのは不当であるとしても兎に角あまりに古典的であるとのそしりは免れない。
カラーチェやラニエーリはドゥオ曲の為に新らしき力を授けはしたが、それも度重つては凡庸に近づき却つて人々はムニエルの古典曲の中に隠されたる美しさを新に尋ねようとする傾向をさへ生じて来て居る。
此時に当たってムニエルを、カラーチェを、すべてに知り尽くした澤氏がドゥォ曲の将来を如何に考えて居るか。

それはペッティネやラニエーリやドウニスに対するよりも却つて興味ある問題であると言い得る。

澤氏は作曲家としては殆んど白紙で渡欧した。
而も一面、すべてを咀嚼し、すべてに融合し得る資性と、他面必ず新しさを求める感情とを併有した氏が作曲家として如何なる道を進まんとするか。
それは甚だ興味ある問題である。
「夜の囁き」は其の冒頭において極めて魅惑的な感情を現わして先づ聴者を夢幻の界に導いた。
和音、手法上の幾多の変化の後に近代的な感情を交えて終りを告げる。
「幻想的円舞曲」には、ようやく東洋風な感情が織り込まれて居る。
そしてリズミカルな舞曲を著しく旋律的に生かした点に(それは勿論その旋律部に対して言うのではない)面白さを認める。
此2曲を通じて人或は従来のドゥオの範囲を脱せずと感じたかも知れない。然しそれは全く皮想の観察である事を私は斯言する。

若し冷静にかつ慎重に考察するならば、此の2曲の中には従来見ることの出来なかった手法がある事を知り得た筈である。
単なるアルペジオに際してさえ極めて新らしいスタッカー卜の効果を綴り、単なるカデンツアにさえ極めて難解な手法を用い、当然アルペジオで続くべき個所を3連音の連続で新らしく生きんとして居る。

之等の清新な技巧は勿論行き詰れるデュオを根本から新たに生命づける程の力があるとは私は言わない。
然しながら少くとも行き詰れるデュオに新たなる道を開く緒となった事は確実である。
斯くの如き点に於て澤氏は明に此2曲に成功したと言わねば成らない。
勿論其の内にはあまりに技巧に走り過ぎた嫌のあった所もあろう。
然し私をして忌憚なく言わしむれば澤氏の曲が若し全然完きものとなって居るならば寧ろ氏の将来を危ぶまずには居られないのである。
デュオの為めに新道を開拓する第一鍬を入れた氏の力が成功でなくて何であらう。
私は改めて作家としての氏の将来を期待したぃ。
演奏家としての氏は渡欧前に比して技巧に著しく進歩して居るとは思われない。
と言えばとて私は決して此言が同氏を非難して居るものでない事を信ずる。
氏の技能は渡欧前に於て既に円熟の域に入っておったのであって、今更ら著しい技巧上の進歩を示す余地はなかったのである。

未熟なものが上手になればこそ「進歩」が顕著に判ろうが、元来上手なものがそう進歩する訳がない。
澤氏帰朝の報があった時、私は沢山の人から「嘸(さぞ)うまく成つたでしょうね」と言う質問を受けたが其の都度「著しく上手に成ったとは感じられまい。唯一般には一寸ら判ない巧味が出来たらうと思う」と答えたのであった。
巧味、渋み、執れも円熟した上の事であって、寧ろ腕の問題ではなく頭の問題である。

私の予言は幸に的中した。
技巧上の問題は相変わらず「うまい」と言うの外ない。
音性の美しさ、左右両手の一致した動きは全く独歩の地位をもって居る。
「幻想的円舞曲」の初めに出て来るカデンツアの美しさは全く比類なきものである。
然し若し澤氏を真個に聴こうとするならば宜しく其の内面的技巧を見るべきである。
誠に失礼な申分であるが、当夜の聴衆の大部分は澤氏の技巧に酔った様であるが、それは恐らく澤氏の本懐とする処であるまいと思う。

芸術家に対しては其作品なり 演奏なりの内的要素を正統に批判して貰わねば成らぬ。
渡欧前の澤氏にはどちらかと言えば表面的技巧が内面的技巧に対して勝ち過ぎて居た嫌いがあった。
而して今日の澤氏は内面的の要素の進歩が表面的要索を真個に生かす迄に進んで居るのである。
私は将来の同氏に対して作曲家として飽くまでフレット楽器の音楽の殿堂建股の為に努力され、演奏家としては決して表面的技巧が演奏の本領でない事を示して戴き度いと思う。』

[転記]:Digital Guitar Archive/Journals/Japan/02-01-Study-of-Mandolin Guitar
大正14年1月1日発行:第2年第1号/マンドリンギター研究
1月号(オルケストラ シンフォニカ タケイ発行)P.21-P.27


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1924年:「マンドリンギター研究」第1年第10号(コンコルソ号)大正13年
武井守成 氏の執筆より
◎帰朝以来専ら作曲に没頭して居た澤常彦氏は四部合奏及獨奏の會を11月16日に報知講堂で開く。
澤氏の第一回作品発表会として大に意義あるものである。
~<>~ 四部は第一マンドリン澤氏、第ニマンドリン加納徳三郎氏、マンドラ内田寅夫氏、マンドロンチ ェロ宮田政夫氏であって独奏は勿論作家自身による。
此コンサートについては改めて筆をとる心算であるから今は曲目の報導に止めておく。

Digital Guitar Archive/Journals/Japan/1924年:「マンドリンギター研究」第1年第10号(コンコルソ号)大正13年