Itsukushima Perry

The mandolin's infancy in the Meiji period明治時代 マンドリン揺籃時代

音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)は、明治12年[1879年]に設立された文部省の機関で、西洋音楽の導入と音楽教育の普及を目的としていました。
この機関は、主に学校教育における音楽の研究と実践を行い、唱歌や器楽教育の基盤を築きました。
一方、マンドリンは明治時代後期に日本に紹介され、特に学生や若者の間で人気を博しました。
音楽取調掛が直接マンドリンの普及に関与したという記録はありませんが、音楽教育の一環として西洋楽器の導入が進められた背景には、音楽取調掛の活動が大きな影響を与えたと考えられます。
つまり、音楽取調掛が西洋音楽の普及と教育に貢献したことが、間接的にマンドリンの受容と普及にも影響を与えたと言えるでしょう。
ギター音楽は、マンドリン合奏と共に育つて来たものであり、当時の多くのギター奏者も何等かのマンドリン合奏団に属している人たちだった。
その関係からギター独奏はごくまれにしか演奏されていなかった。
ギターを熱心に手にした人であるならばその独奏ががマンドリン合奏と離れた意義を持つている事を充分に知つて居る筈で あった。
クラシックギター音楽の『萌芽時代』大正年間(1912年-1926年)に於けるプレクトラム音楽は合奏全盛であった。



平岡 熈 Hiroshi Hiraoka

平岡 熈
平岡 熈

1856年-1934年安政3年-昭和9年

江戸時代の封建制に代わり、天皇を中心とする近代的中央集権制が確立された、明治時代の初期のこと。
明治4年[1871年]11月、岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文等を副使とする遣外使節団が日本を出発した。
使節団は、約2年をかけてアメリカ、イギリス、フランス、東欧諸国、ロシア等を巡回し、条約改正の準備および諸外国の制度・文物の調査を行った

1871年、岩倉遣外使節団がヨーロッパ出発の年、16歳で自費で渡米し、アメリカの鉄道工場で車両製造の技術を5年間学んだ後、帰国した。
この時、野球用具一式とともに、一本のギターを持ち帰ったらしい。[*1]

[※参考資料]:[*1](渡米の名士無名士)国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920323/1/223
[出典]:Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E5%87%9E



四竈訥治  Totsuji Shikama

四竈訥治
四竈訥治

四竈訥治  Totsuji Shikama

1859年-1928年安政6年-昭和3年

日本のマンドリン音楽・クラシックギター音楽の源流となっている。

マンドリンの最初の記録は、音楽雑誌に仙台にて、明治27年 (1894年) 四竃納治 [ しかま とつじ ]がイギリス人からマンドリンを贈られたとされている。

四竈訥治は1859年(安政6年)~1928年(昭和3年)7月9日死去、享年69歳。

訥治は仙台の上級藩士の家庭の長男として生まれる。

兄弟は盲唖学校の校長や海軍中将となっている。

自分の好きな道に進んだのは訥治だけであった。

裁判所や警察で仕事をしながら歌舞曲に興味を持ち、さまざまな邦楽器や明清楽器を学んだ。

この時に芸者だった「小辰」と知り合う。

1880年小辰(たつ)と結婚。

家族からは大変な顰蹙 (ひんしゅく) をかった。

訥治は小辰から多くの音楽を学んだようである。

このことは訥治が発行した「音楽雑誌」に記録がある。

1884年弟が音楽取調掛の県派出伝生になったことに刺激され同じく伝習生として東京へ出る。

翌年卒業し、当時不足していた音楽教員の短期速成コースで上野で集中的に唱歌や楽器を教えた。

そして東京府師範学校教諭心得という官職についた。

その間有楽町の自宅で唱歌の講習会(東京唱歌会)を開いている。

師範学校には2年半勤めて退職した。

その後定職にはついていない。

この年の秋、陸軍音楽隊、師範学校生徒による音楽会を開催。

 

また1881年月琴楽譜集出版、1888年「楽器使用法」、「御国の光」、「懐中ヲルガン弾法」出版、1889-90年「撰曲唱歌集一、二集」、1890年「手風琴独習之友第一集」発行している。

このように二十代後半の訥治が音楽活動に積極的であったことが伺われる。



[出典]:Mandolin cafe Home Page
http://www5.plala.or.jp/mandolin-cafe/10-denrai.html



比留間賢八 Kenpachi Hiruma

比留間賢八
比留間賢八

1867年-1936年慶応3年-昭和11年

マンドリン普及から始まった.あわせて、ギターをも学んだ
江戸の麹町で幕臣の比留間安五郎の四男として生まれる。1883年、音楽取調掛伝習生となりチェロを専攻する。
1887年、音楽取調掛を卒業後、アメリカのニューヨークに留学。
1889年にはヨーロッパに渡り、1891年に帰国。
このときにはじめて日本にハーモニカとツイターを持ち帰っている。
1898年に再び渡欧し、ドイツとイタリアでマンドリン・クラシックギターと出会う。
1901年にマンドリンとギターを持ち帰って帰国し、マンドリン・ギター教室を開いている。
以後その普及に尽力し、日本のマンドリン音楽・クラシックギター音楽の源流となった。

その門下には音楽家の齋藤秀雄、華族の徳川義親・武井守成・土方与志、作家の里見弴、詩人の萩原朔太郎、画家の藤田嗣治、陶芸家の富本憲吉、東京室内歌劇場創立メンバーの杉田村雄がいる。
また娘の比留間きぬ子もマンドリン奏者として活躍した。



[出典]:ウィキペディア フリー百科事典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E7%95%99%E9%96%93%E8%B3%A2%E5%85%AB