Itsukushima Perry

Important early guitarists in Japan日本における初期の重要なギタリスト

Robert Coldwell[ロバート・コールドウェル]が公開2012年2月4日
この記事は、1997 年に Matanya Ophee の Guitar and Lute Issues サイトで最初に公開され、その後私[Robert Coldwell]の個人サイト icoldwell.comで公開されました。

下記の「池上冨久一郎」の紹介文は前出 [記事メニュー]、最上段『日本における初期のギターと重要なギタリスト』での再掲載です。



池上冨久一郎 Fukuichiro Ikegami

池上冨久一郎
池上冨久一郎 夫妻

1903年-1954年 <明治36年-昭和29年>


前出メニュー『日本における初期のギターと重要なギタリスト』に記載事項より再掲。


※ 1924年10月28日 第一回作曲コンコルソ(オルケストラシンフォニカ・タケヰ主催)に応募したが、落選する。

[digitalguitararchive/01-10-Study-of-Mandolin-and-Guitar.pdf/P.22-23]
[*追記:管理者]2024/11/08


  • 1926 年になって初めて、最初のギターソロリサイタルが開かれました。
    これは横浜で 池上冨久一郎[Fukuichiro Ikegami]によって開催されました。
    残念ながら、池上についてはリサイタル以外何も知られていません。

  • 1926 年に 2 回、1927 年と 1928 年にそれぞれ 1 回開催されました。


最初のリサイタルのプログラムは不明ですが、1926 年 4 月に開催された 2 回目のリサイタルでは、カルッリ (デュオ)、ジュリアーニ (デュオ)、メルツ、ジュリアーニ、ソル、レゴンディを演奏しました。

  • 1927 年 4 月の 3 回目のリサイタルのプログラムは次のとおりです。
    • • アーベンリート (メルツ)
      • ノットゥルノ Op.3 No.1 [または No.3?] (ザニー・デ・フェッランティ)
      • ロシアの主題と変奏曲 Op.10 No.12 (カルカッシ)
      • ソナタ Op.15 (ジュリアーニ)
      • 大序曲 Op.6 (カルッリ)
      • 歌曲/マズルカ Op.13 No.11(メルツ)
      • ロンド・ド・フェ Op.2 (ザニー・デ・フェランティ)
      • 夜の岸辺 (池上)


      • 1928年3月の第4回リサイタルは「スペインの夕べ」と題され、池上はソル(デュオ)、タレガ、ファリャ、トローバ、プジョールを演奏した。


      この4回以降のリサイタルについては何も記されていない。
      池上はギターの作曲も手がけたが、出版はされていない。
      長年にわたり、武井守成[Morishige Takei]に送った原稿は計8曲ほど。

      ※1929年9月21日 オルケストラ・フィルモニカ(横濱)は大正12年[1923年]創立以来7回の演奏会を重ね横濱の斯界に努力する所ありましたが、今回都合により解散されることとなり9月21日付会長:上島幸雄氏、副会長:池上冨久一郎氏の名を持って通知が有りました。(因みに合奏団の種々な事故について殊に解散等の場合然る通知を出される事は良いことと思います。解散は何としても残念ですが)とある。[1929-17-Armonia.pdf/P.29]
      [*追記:管理者]2024/10/31


      池上の活動は限定的だったため、武井は彼のリサイタルの存在すら知らなかったようだ。

      武井は池上の曲を8曲持っていたと言われていますが、国立大学の武井コレクションで私が見たのは2、3曲だけです。

      山下一仁は 池上の曲を9曲録音しています。
      原稿の出典はわかりません。


      [*写真出典元]:(池上冨久一郎夫妻)ギターから見た近代日本の西洋音楽受容史 竹内喜久雄(提供:池上久雄氏)P.139

池上冨久一郎
池上冨久一郎 夫妻

「セゴヴィアを聴いて」池上冨久一郎 氏の寄稿文

「セゴヴィアを聴いて」:<序文>宮田政夫 氏

『セゴヴィア来朝の唸ある時。彼のレコードは先ず彼に先立つて我々を訪れた。
世界一流ギタリストの秘術に接する事は殆んど皆無である我が国にとつてそれは大きなよろこびである。
本誌は之に際して表題のごとく、その感想を二、三ののギタリストに就いて乞うた所、幸い稿を寄せられたので、ここに掲載する次第である。
玉稿を賜った各位に厚くお礼を申し述べる。』

(順位、到着順) 河合博・小倉俊・大河原義衛・池上冨久一郎・宮田政夫(同人)



1929年 池上冨久一郎氏の寄稿文

『セゴヴィアの名を如何に永く待焦れて居た事でしょう。
ビクターの1月譜にその名を見出だした時の欣びは全く例え様もないものでした。

幼時別れた兄に廻り会う様な心の時めきを感じ乍ら私はそのレコード面へ針をおろしました。

曲はソルの作品第九番「モツアルトの主題による変奏曲」です。
私はシムロツク版の原作より持つて居ないのが残念でした。
イントロダクションのないのが一寸物淋しく思いましたが、そのタッチには既に腑を洗われました。
それにギターが是程多様な色彩を出すとは考えませんてした、美しき重音の連り、夢見る様なヴィブラート、ソステヌートの余韻の妙、汎珠の流れを思わせる急速なテンボ、胸のすく様なスタッカートの明快さ、凡ては人技とは思われません。
此の変奏部は彼によつて原作ソルの、ものに比して数倍効果あるものとされて居ります。
バッハの「ガヴォット」に於ても演奏家及作家としての彼の手腕を更に強くみせられました。
私は凡てを聴き終つた時、第一に敬服した事は彼の演奏家としての生真面目さと曲に肘する解釈の素晴らしさでした。
偉大なるセゴヴィア!! 彼によつてギターの凪債はさらに高められました。
ソルもタルレガも地下にて彼の活躍に満足して居る事でしょう。
セゴヴィア来朝の日は何時の事てしょう? 私は本邦ギター界の為にその実現の一日も早からん事を望んでやみません、本当に吾ギター界は淋し過ぎますからね。』

digitalguitararchive/1929-02-R.M.G-n24

池上冨久一郎
池上冨久一郎 夫妻

1942年1月号 武井楽団発行「マンドリンとギター研究資料」より

[ 我邦ギターの揺籃期における作曲の一学徒 ]
『ギター運動が今日の如く盛んなるを見るにつけ思い起すのは、20年も前に孜々として(ししとして:一つのことを熱心に続けることを意味する)ギター曲を書いていた池上冨久一郎と言う若き学徒の事である。
大正13年だったと記憶する私は横浜に住む未知の人から小さいギター曲1つを送られた。
そえられた書簡は「此の曲についての意見を聞きたい」という依頼で、「自分は音楽について極めて幼稚な知識しかもたないので、此の曲が果してものになっているかどうかは判らない」とも書かれていた。
之が池上氏である。
その曲は僅か25・6小節の小品であるが、成程和声上の欠陥が相当に多くどうにも成らぬような感をもつ個所があるが、1面には又如何にも純真な、心をうつものも含まれていた。
私は率直に其の旨を返事し 且つ「唯一曲で貴下の作曲上のすべてを批判する事は出来ない」と申し送ったところ間もなく更に一つの曲が送られて来た。

此の曲もまた、前の曲と同じように長所と欠陥とをもつているが、しかし 2曲は全く別ものであったばかりでなく、私には前よりも其の長所とするところが明らかに成つて来たのである。
斯うして2,3の曲が次々に送られて来た。
どれもこれも2・30小節の小品であるが、いつも画用紙に自身で五線を引き、それに丁寧にノートされていた。
五線紙はい<らでも売っているのに此面倒を敢えてしたのは、それが此人の好みなのか、或いは又特に敬意を表される意味からそうされたのか、それは判らないが如何にも丁重な克明な人のように想像された。
そうこうする中に私は面会を求められ、震災後のバラックの私宅で初対面の挨拶を交した。

打見たところ町家の若主人と云った風采で、どう見てもギターを奏いたりギター曲を書く人には見えない。
聞けば家業は足袋屋さんだと云う。
之は或は記憶違いであるかも知れない。
しかし話をしている中に驚ろかされたのはギターに対する熱烈な憧憬であった。
内面に持っている音楽的素質は確かに良いものが多分にあるが、いかにも理論についての知識がない。

相会うまで「天才なのか出鱈目なのか」と判断に苦しんでいたが、その両方が現実なのであるのを知ったのである。
私は理論についての勉強をされることを希望してその日は別れたのであるが、これが唯一度の面会であったように記憶する。

しかし曲はその後も度々送ってこられ、書簡も度々受け取ったが、2,3年にしてそれも途絶え、その後全く消息を知らない。

今私の手元には8つの曲が残っている。
そのすべてを掲げる事は限られた紙面上到底許されないので「物語り」一つをそのまま掲げてこの若き学徒を偲ぶことにするが、さて此の8つの曲をならべて見て改めて考えさせられる事は、此の未完成な作曲家ーと言うよりも作曲を志す一生徒と言う方がいいのかも知れない・・・がもし適当な教養を積み得たならば大成していたのではないかと言う事である。
ギター曲とLして彼はフエレール、カノや次いでは大タルレガなどの曲に異常な敬意をもつていると言うより卒直に言えばさら言う人たちの曲の外廓を見つめている。
また極めて単純なリズムしか駆使出来ていない。
更に和声については殆んど知識がない。 従つて飛んでもない失敗を平然と見すごしている。
にも拘らず何か一脈の生気をもつているのは何故であろう。

それは彼の内心に潜在する精神的なよさであって,而もそれこそは求めんとして求められず、且つ多くの作曲に志す人のすぺてが皆保持しているとは言えぬものなのである。
彼の曲はすべて手を入れなければものには成らない。けれども若し訂正されるならそのいづれも生命な充分もち得るものばかりである。
ギター音楽について極めて幼稚な知識しかもたなかった当時の我邦に於て・・・ギター曲を書く人殆んど皆無であったその当時・・・彼が大成しなかった事ば惜しいが、しかし我邦ギター界発展の下積みに成った此人の事は斯界は記憶していてよいように思われる。』

『終わりに私の所有する8曲の名を挙げて置く。』
■月下の逍遥(ヴァルス)(腕又氏に捧ぐ)
■物語り(高橋文雄氏に捧ぐ)
■落葉(夜曲)(筆者に贈らる)
■秋の踊リ(ギヤロップ)(村上三郎氏に捧ぐ)
■灯點し頃 (小幻想曲)
■―つの道ヘ(オルケストラ・シンフォニカ・タケイに捧ぐ)
■春の望み
■春の踊り

[*転載]1942-01-no1-「マンドリンとギター研究資料」P.3より



1924年11月1日発行 「第一回作曲コンコルソ当選曲と小評」


[審査員]:武井守成・澤常彦・大沼哲・菅原明朗

第一回作曲コンコルソは8月末日を以て締切りマンドリン独奏曲5編、ギター独奏曲8編を得、爾来審査に従事したのであるが審査に意外に時日を費やし漸く10月20日決定、同月28日、オルケストラ・シンフニオカ・タケヰの第16回演奏会に於てこれを発表し、同時に応募者全部に之を通知したのである。

~<前略~>
◎ギター獨奏曲
(一等なし)
二等。賞状
「船唄」評(Barcarola)  京都 堀清隆氏

■短評
ギター獨奏曲として応募されたものの中、先づ審査員が多少なりとも問題としたものは堀(*清隆)氏の「祈」「夜のノヴェレッタ」「船唄」、池上(*冨久一郎の事と思われる)氏の「戯欲」「落葉」の5編である。
而して更に厳査の末、堀氏の3曲が当選圏内にあるものと認めた。

「祈」は面白く出来て居る。
又ギターと言う楽器の特色を可成りよく握つて居るが所々に無理な変調、不自然な句法が用いられ、和音の誤りがあり統一に欠けて居る。
「夜のノヴェレッタ」は軽快なファンタスティックな面白味があるがリズムが不自然であり且つメロデイーが断片的に続いて居るのを装飾や伴奏部で紛らして居る様なところが有り、全体に冗漫に流れて居る。
「船唄」は伊太利風な美しい旋律をもつて居り、曲の変化手法等すべてに亘つて難が少ない。
和声上の誤謬はあり、初めの部分と次との対象にもやや不満はあるが全体として見れば非難の少い作であり同時に或程度にオリヂナリテイーが見出される。
此三曲について更に身長審査の末「船唄」を入選曲とした。

然し之とても他に比して隔段に優れて居るとは認められず、之を一等に推す事は不当であると認め、二等と決した次第である。
堀氏の曲のみが当選圏内に入った事は同氏の為に喜びとする所ではあるが同氏には今少しデリカシーが欲しいと思う。

若し池上(**冨久一郎の事と思われる)氏に和製の知識があれば恐らく堀氏は独占的位置を保つ事が難しかったであろう。
池上氏は感受性の豊かな人であると思う。
氏の作品には全く自然な美しさがある。
魅力に富んで居る事は堀氏の遠く及ばざる所である。
然し惜しむらくは氏には和声の知識が足りない。
そして折角の美しさを和製の欠陥で破壊して居る。
今―つ雨曲を通じて氏はタルレガを極端に崇拝して居る事が明に認められる。
勿論悪い事ではないが、氏の作品が全然タルレガに縛られる事は考えものである。
池上氏の如き天賦の才に恵まれた作家は是非和製額を研究されて、其の作品に磨きをかけて戴き度い。


[結び]
なお独奏曲を通じて如何にしても一等を認むるものを見出さなかったのは遺憾であるが、第一回の試みとしては決して悪い成績ではないと思う。
審査員は厳査を行う面に於て本邦のマンドリンギター曲作家の奨励という事を主眼にして寛容の態度は失わなかった心算である。
当選の3曲は大分訂正を行わねば成らぬ所がある。
それ故、当選者の承認を得れば訂正を加えて出版する心算である。
勿論修正は止むを得ざるものに対して最小限度に之を行うのである。
次期の作曲コンコルソに於て更に優秀なる成績を上げ得る事を祈つて小評の筆を置く。

[*転記]digitalguitararchive/01-10-Study-of-Mandolin-and-Guitar.pdf/P.22-23