Itsukushima Perry

The budding era of Japanese classical guitar music日本クラシックギター音楽の『萌芽時代』



澤口忠左衛門 Chuzaemon Sawaguchi

澤口忠左衛門
澤口忠左衛門

澤口忠左衛門[Chuzaemon Sawaguchi]は、大正13年に仙台アルモニア合奏団を結成、昭和2年に機関紙「アルモニア」を発行しました。
[ 1902年 - 1946年 ]


仙台に生まれ、家の事情で上級学校に進学はせず銀行員となる。
マンドリンの名手。
東北帝大のマンドリンクラブに手伝いに行ったりしているうちに、次第に仲間が集まって合奏ができるようになり、大正13年に仙台アルモニア合奏団を結成、昭和2年に機関紙「アルモニア」を発行。

当時旧制2高の学生であった高橋功は合奏団のコンサートマスターとして抜擢され、また機関紙編集の手伝いを創刊号からしたという。

昭和6年の五周年記念に当たって、アルモニアの事業を、年2回の定期演奏会、楽譜の蒐集整備、機関紙と楽譜の出版頒布、海外楽譜文献取次、教授所開設指導促進の五つに大別して、積極的な活動を展開した。
この頃の出来事としては昭和4年にアンドレス・セゴビアが初来日し、ギター界に大きな影響を与えている。
機関紙アルモニアは仙台にありながら日本各地のマンドリン・ギター関係者から大いに期待され、歓迎されたようである。

昭和10年結核を患った沢口は昭和11年に合奏団を解散し、アルモニアの刊行と楽譜の出版に専念し、心血を注ぐことになる。

次第に戦時色濃くなり、誌の出版は困難となり、昭和16年11月、90号でアルモニア誌は廃刊(休刊)となった。
戦時下、空襲から楽譜や資料、楽器を守るために家財道具より優先して疎開させた沢口夫妻の苦労と熱意が伝わってくる。
沢口は無事に疎開先から戻った楽譜や資料を見るが、それに十分に目を通す間もなく昭和21年、43歳で他界。

澤口忠左衛門・高橋功・中野二郎
澤口忠左衛門・高橋功・中野二郎

1931年 中野二郎 氏を迎えて

[*転記]digitalguitararchive:1931-28-Armonia/P102.P.103 より


『アルモニアの5周年は中野氏を迎える機会を与えてくれた。
然し自分はこの機会にに充分時間を取る事が出来なかったのは残念であった。
中野氏を送別して数日後、少ない時間の面接を快く回想しつつ本文を綴る次第である。 ~<中略>~ 中野氏はギターの譜も若干持参された。
そして高橋君や自分逹のギターを取って奏した。
氏のマンドリンの演奏とギターの演奏を並ぴ考えて感じた事は実に「ギターとマンドリンの交流」であった。
大体の流奏家は何れかに分たれる憾みがある分たれる其の事よりも其の一方に関知しない場合も多いと云はねばならない。
然るに中野氏に就いてはギターとマンドリンが交流し合い、互いに補助しつつあった。
それが演奏技巧にまで発展しているのを見た。
之は自分の断想であるかも知れないが、此の事が結局よい結果をもたらしているのを知つて嬉しかった。
氏の作品や演奏に接して此の事を思い合わせると興味以上のものが与えられる。

中野氏を迎えて自分逹の研究方針や演奏方面に非常に多くの参考と刺激を受けた。
そして新らしく任務が与えられた様に自分逹の仕事が呼び懸けている。
自分逹は結局これだけである。 然しそれは常に全力を尽くして自分逹の進みた心にかられる。 アルモニアの5年は斯くして中野氏を迎えた事によって大さな記念となった。
(1931年6月末 澤口)』
  とある。


armonia_guitarre-kammer-trio
Armonia Guitarre Kkammer Trio

   ARMONIA Guitarre-Kammer-Trio
   [1932年11月20日]

1932年11月20日
第12回アルモニア演奏会
場所:西公園公会堂にて開催

[出演者]
第一マンドリン:伊籐政治、横堀義美、広瀬文夫、伊東赳
第ニマンドリン:渡辺正吉、エ籐正雄、植本四郎、川口清
マンドラ:橋本泰蔵、竹内保高、高橋長平、渡辺徳郎
マンドロンチェロ:荘司英一、松本健四郎
マンドローネ:平宜
ギター:永田譲、熊谷直人、庄司善六、真山雄子、庄司初子
ギタローネ:石森隆知
パッテリア及カンバーナ:エ藤正雄
指揮:澤口忠左衛門



[Guitarre-Kammer-Trio:ギター室内トリオ] 左から、永田 譲(テルツギター)、澤口忠左衛門(バスギター)、石森隆知(プリムギター)

1929年頃の大河原義衛
1929年頃の大河原義衛

逝ける大河原義衛氏:澤口忠左衛門 氏の寄稿文より

逝ける大河原義衛氏:澤口忠左衛門 氏の寄稿文より
~<前略>~
不幸昭和6年の夏、夏病を得て多くの仕事を中止せぬばならなかった。
翌年初夏、上京の折、芝の養生院に訪ねた時は、回復も間近い様に思われたが、之が最後に接した大河原氏であった。
(最初に会ったのは、昭和5年6月3日、仙台に来られ放送された時であった。)
アルモニア誌は終始読んでくれ病床にあって、”アルモニア”を常に楽しみにして居た。
何かと近日まで手紙をくれたが、先般筆者の「ギター音楽」については心から喜んで呉れた一人であって、タルレガを中心とする奏法解釈上の二つの分類(今はもう少し変わった意見を持っているけど)の明解なのを殊の外喜んで手紙を呉れたりした。
我がギター界は大河原氏の如き意気と熱誠と努力の人をもっともっと必要なのであるのに氏の再起を得なかったのは何としても惜しいことである。
誠に大河原氏は我がギター音楽初期の大きな存在としてその作品と共に永く記憶されるであろう。』